劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

おさかな天国 2日目

翌朝目覚めるとすり美の姿はなかった。玄関には私の靴だけがあった。彼女は出かけているらしかった。そういえば昨日展望台で出会った時、すり美はカバンとかポーチとかいったものを一切持っていなかった気がする。ワンピースにもとくにポケットなどついていないようだった。カフェの勘定は確か私がした。彼女が部屋の鍵をどこから出したのかよく覚えていない。何ひとつまともに思い出せない。昨日見たワンピースも部屋着も寝室にはなかった。彼女はいったい何を着て、何を持って、どこに行ったんだろう?コンクリート打ちっぱなしのマンションの殺風景な部屋に私は独りいて混乱していた。玄関の大きな姿見に、上半身裸で血の気の失せた顔をした、中肉中背のとくに容色にすぐれてもいない、凡庸な28歳の男が映っていた。私は思わずくすりと笑った。昨夜体を洗わないまま寝たのを思い出した。

洗濯機の中には昨日すり美が着ていた大きな丈の長いシャツと、洗いざらした綿の下着がつくねてあって、そんなことでほっとしている自分が情けなかった。まるで子供じゃないか。熱いシャワーを浴びながら、子供のころ休みの日の朝に起きてみると母親が勤めに出ていた時のことを思い出した。そんなこととくに珍しくもなかったのにその時はひどく動揺して泣きべそをかきながら家じゅう探し回り、居間のちゃぶ台に書置きを見つけてようやく落ち着きを取り戻したのだった。確かもう小学校の4年生くらいにはなっていただろうか。図体のでかい臆病な子供だった。そのくせ誰にも頼りたくないと思っていた。そこからろくに成長していないということなのかもしれない。

風呂から出て丈の合わないバスローブを羽織りベランダに出ると空は薄曇りで、風は冷たく、ほんのり湿り気を帯びていた。靴は玄関にあるし財布を入れた上着も昨日脱いで椅子にかけたままで、外に食べに行こうと思えばできたが、そういう気にならなかった。かといって冷蔵庫を漁りたくはなかった。キッチンの隣の小さなパントリーからオイルサーディンの缶詰とクラッカーを取った。オイルサーディンの油を少し捨てて、缶のまま火にかけてクラッカーを突っ込んで食べた。とくに侘しくはなく、むしろ気楽でよかった。冷蔵庫から缶ビールを一本だけ出して飲みながら居間のソファに座り、テレビのスイッチを入れた。起きたのがよほど遅かったらしい。もう真昼だった。『徹子の部屋 NEO』が終わって昼の洋画劇場が始まるところだった。

『007/怪魚ヒルデブラント』は奇妙な映画だった。解説によるとジョン・カーペンター監督が1989年に撮った、上映時間わずか65分の映画で、007シリーズとしては破格の短さながら内容的には素晴らしく、同監督の代表作のひとつと言ってよいだろうという話だった。確かに印象深くはあった。サム・ニール演じるジェームズ・ボンドがインド洋セーシェル諸島のいかにも温そうな海で巨大なアカエイと戦って勝利をおさめ、現地の漁師たちの喝采を浴びる。そのあと地元の名士フィデル(よく日に焼けた小柄で小太りの白人で、いつか見たハチャメチャなコメディ映画で見かけた気のする俳優だった)を介して、ドイツ系アメリカ人の富豪クレストの所有するインド洋一豪華な船でのパーティーに参加するのだが、このクレストというのがなんとも下品かつ横柄なやつで、金にあかせて世界各地の希少な魚を無節操に買い集め、パーティーでは酔って客をののしり、アカエイの尾で作ったごつい鞭をちらつかせて若く美しい妻(ケリー・マクギリス)を脅している。軍隊シャツにブルージーンズに大きなバックルの付いたベルトをしめて出てきて、よく見るとニック・ノルティだった。無精ひげを生やし、少し老けメイクもしているらしい。彼はボンドとフィデルに会うなりイギリスの経済力のなさとクレオール文化をおちょくって二人を存分にいらだたせた後、自分の妻とボンドとのつかの間の密会を目ざとく見つけてボンドを殺すと息まき、自室に戻って妻を虐待し、翌朝未明に甲板の上で死んでいるのを、物音に気付いて起きてきたボンドによって発見される。口の中にでっかいピンク色の鋭いとげやひれのいっぱいついたオコゼみたいな魚(通称ヒルデブラント)を突っ込まれて窒息したらしい。その顔がアップになる。とたんにサム・ニールの額に脂汗が吹き出し、鬼気迫る形相で、妙に手際よく死体の処理をはじめる。甲板に吊ってあるハンモックを切れ味の悪いナイフでわざと粗く切って垂らし、死体を苦労して海に投げ捨て、転落事故に偽装する。そして犯人を推理するのだが、フィデルの犯行は早々に否定され、事件の発覚から5分もしないうちに犯人がほぼ確定する。ケリー・マクギリスが、分厚い手袋をはめてどぎついピンク色のとげだらけのでかいオコゼをニック・ノルティの口に押し込み、ニック・ノルティがのたうち回りながらくぐもった奇声をあげ、魚を引き抜こうとして顔と手を血まみれにする、やけに長い凝ったイメージ映像が挿入される。死体は海に消え、魚が凶器だったことは犯人とボンドしか知り得ないため、ボンドは富豪の妻に「あの珍しいヒルデブラントの標本はどうなさるご予定ですか」とカマをかけるが、彼女は顔色一つ変えずに「大英博物館へ寄付しますわ」と答え、そのうえ「夫の突然の事故死で心細く、事後処理にも自信がないので、もう数日ここにとどまって手伝ってほしい」とまで言ってのける。サム・ニールの顔がこわばってますます狂気を帯び、両者の間に緊張した空気が流れるが、彼は引きつった笑顔で、富豪の妻の申し出を受ける。二人はピンクのシャンパンで乾杯する。爽やかな朝日に照らされて遠ざかる豪華絢爛な船を映しながら、場違いにロマンチックなエンディングテーマが流れはじめる。

途中からクローネンバーグの映画を見ているのかと思った。『遊星からの物体X』もグロテスクではあったが乾いた質感があって、今回はうって変わってかなりネッチョリしていた。顔中血みどろで口の周りの皮膚を太いとげに突き破られたニック・ノルティの死にざまが脳裏に焼きついていた。ビールはまだ半分以上残っていたがもはや飲む気がせず、中身を流しに捨てに行くとつい一時間前に食べさしたオイルサーディンに大量の小さなハエが群がっていた。慌てて缶を洗って蓋つきのゴミ箱に捨てたが、そのゴミ箱の内側にもびっしりと小虫が貼りついてうようよ蠢いていた。私はよろめきながら寝室へ向かった。寒々しい色の壁や冷たいフローリングの床が、一足踏み出すごとにゆっくりと歪んでいくように思われた。蟻を何匹か踏んだ気がした。

寝室にはすり美がいた。体の線がくっきりとわかるだいだい色のワンピースに身を包み、ベッドの上で悩ましげに体をくねらせている。その額にでかめのハエがとまった。彼女はそれを払いもせずに囁いた。「ねえ、続きしよっか」

「しねえよ!おかしいんだよこの部屋!さっきからハエとか蟻とか虫が多すぎるんだよ!冬だぞ!なんか色々腐ってるんじゃないのか」

「あ、それはさっきなれ寿司を買ってきたから……テーブルに置いてある」

「いやその前からなんかやたら目立つんだよ、うじゃうじゃいるんだよ虫が」

「もう!落ち着きなさいよ。他の子は一週間くらいはもったよ」

「他の子ってなんだよ!」私は我を失って彼女の首根っこをつかんで引き寄せた。黒いチョーカーがちぎれ、首があらわになった。そこには赤いビニールテープが巻かれていた。私はそこに印刷された文字を読んだ。『ワンタッチで、あけられます』

不意に懐かしい記憶がよみがえり、涙があふれ始めた。すり美は銀色の金属製の髪留めを外し、それから私の手をとって、ビニールテープの端まで導いた。「さあ、いいわよ」

私は震える手で赤いビニールテープを引っ張った。テープはするりと取れ、すり美の体にぴったり貼りついているように見えた薄いだいだい色の服がはらりと剥がれ落ちた。

ああ、なぜ人は大人になると、おさかなのソーセージをあまり食べなくなるんだろう。こんなにおいしいのに。

私はすり美の桃色の肌に狂おしくむしゃぶりつきながら、心からそう思った。彼女も私の首筋に嚙みついて吸っているのがわかった。甘美な痛みだった。

今も私は彼女とともにこの部屋にいる。空腹に悩まされることも、疲労することももはやない。私たちはいつも一緒にいる。たぶんこれからもずっと、いつまでも。