劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

ゴンベズ・フィーバー 1

おばあちゃんは目の前を駆けている鶏の首を山刀でさっと刎ねた。首無し鶏はそのままおれのところへ走ってきた。おれは思わず泣きだした。「嫌だ、嫌だよお、おれもう帰りたいよ、ばあちゃん家くるといっつもこうなんだもん」

「怖がりだねお前は。じきに慣れるさ。お前の父ちゃんだって大丈夫だったんだから」

おばあちゃんはしわしわの口をすぼめてうまそうに煙草をふかし、おれの顔を覗きこんで言った。

「そろそろ払っておくれよ。家賃。もう四か月もたまってるんだよ」

「えっ?」

アパートの大家のオヘアさんだった。いつにもましてものすごい形相でこちらを睨みつけていた。

「せっかくいい気持で眠っていたのに」

「うなされてるように見えたがね。まったく。こんなに汚くして。この床の酒瓶の山ときたら!ハエがたかってるじゃないか!それに一体何だいこりゃ。子供用かい?」そう言ってオヘアさんは壁にかかっている黒いタンバリンを指ではじいた。

「そのハエとタンバリンとの間におれの宇宙があるんですよ」

「その汚いソファのことかい。冗談じゃないよ。いい加減にしないとあんたそこで寝たまま腐っちまうよ」

おれは穴の開いたハンチングを顔にのせて再び眠ろうとした。オヘアさんは低い唸り声をあげてソファを蹴っ飛ばした。体じゅうにびりびり来た。それでも動くまいとしているところへ、開いたままのドアをわざわざノックする音とともに、よく知った声がした。

「やあ、オヘアさん。大変そうですね」

「あら、警部さん!警部さんからもなんか言ってやってくださいな!」

ハンチングの穴から恐る恐る覗いてみる。半袖のワイシャツにはちきれんばかりの太鼓腹。卵型の頭。いつも眠そうな目。元上司のイーサン・ダル警部だった。警部は腹をゆすりながら、ソファの前のスツールに大儀そうに座った。

「おい、フェリックス、どうしちまったんだ一体。アレクシスから電話もらってびっくりしたぜ。もう三度も面会をすっぽかしてるそうじゃないか。ミンさんの店にもずっと出てきていないようだし」

「あんなとこもう辞めたよ。あのおっさん6時半から店を開けやがるんだよ。そんな早くから誰も来やしないのに。イヤんなるぜ。カウンターにいるだけで揚げた魚の匂いが体にしみついて、洗っても取れやしない」

「あれは良い匂いだろうが。お前が臭いのはずっと酒飲んで寝てるからだよ。最後にシャワー浴びたのはいつだ?歯ァ磨いたのは?もう覚えてないんじゃないのか?しっかりしろよ。ひとのせいにするな。しっかり身繕いをして、そのピンク色のしょうもないワイン以外の、もっとまともなものを腹に入れろ。そうすりゃ頭もすっきりするさ」

「先立つものが無ぇ」自分でも信じられないくらい情けない声が出た。数秒の沈黙ののち、深いため息とともにスツールがきしんだ。警部が札を三枚指で数えて床に置く音がした。おれはぼろきれみたいな毛布の下から光の速さで手をのばして床の上の紙幣をおさえた。その手首を警部の太い指が思い切りつかんだ。

「取ったな!たしかに取ったな!あたらしい仕事の前金だそれは。必ず受けてもらうからな」

おれは恐る恐る手をどけた。札が二枚と、その下に、二年前に取り消されたはずのおれの探偵のライセンスがあった。「マジかよ、どうやったんだこれ」

「苦労したんだぜ。やるか?」

「やる!」おれはソファから跳ね起きた。

「詳細は追って知らせる。電話に出ろ」そう言い残して、でかい腹をゆすりながら警部は去った。高校生くらいの頃に読んだ小説に出てきたビア樽の天使を思い出した。

おれは形から入るタイプだ。床にいくつも転がった酒瓶をゴミ袋にまとめて、とりあえず全部ベランダに出した。床をざっと拭き、汚れた肌着を捨て、熱いシャワーを浴びて髭をそった。茶色いスーツを着て、緑のハンチングを深くかぶり、洗面所の割れた鏡をのぞいてみる。ジャケットのボタンがどうしても留められないが、そう悪くない。『フェリックス・ゴンベ探偵事務所』の看板をどこにどう出そうか考えながらデスクを片付け、ペン皿と電話を取りやすい位置に置いて、そのときようやく思い出したのだが、電話が止められていた。

(続く)