劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

トマス・パパド伝 3

もう冬が近いというのにその夜はやけにじめじめして、体中がべとついている感じがした。おまけに頭の中でブンブンという虫の羽音のような耳障りな音がずっと鳴り続けていた。モイスト司祭はあまりに寝つかれないので仕方なくベッドから出て、スリッパをはくのが面倒なので素足のままで窓を開けに行った。床も心なしかべとべとしていた。カーテンを開けると墨を流したような空が見えた。

窓を少し開け、ひんやりした空気を一瞬肌に感じてうっとりした途端、小鳥と見まごうようなめちゃくちゃでかい蛾が窓に突進してきて、茶色くて分厚い羽をバタバタとガラスに叩きつけた。大きな目と異様に太い触覚、そしてやけにふさふさした見た目がなんとも不気味だった。司祭はあわてて窓を閉めようとしたが、一瞬反応が遅れて、蛾は室内に入ってきた。そして、ジジジジッ!ジジジジッ!とやかましい羽音を立てながら寝室を一回りし、不意に司祭の頭にとまった。虫とは思えない、よく太ったスズメにでも乗られたかと思うような確かな質量を感じた。頭のてっぺんから足の先にまで稲妻に打たれたかのごとき戦慄が走った。「うわわわ」モイスト司祭は無我夢中で頭を振り、髪の毛を何度も手ではたいて蛾を追い払おうとした。蛾の重みはすぐに消えた。やがて冷静になり、自らの立場を思い出した。聖職者が殺生はまずい。両手を見ると鱗粉がたくさんついていた。部屋はしんと静まり返り、自らのたてる粗い息遣いのほかには何の物音もなかった。ベッドサイドの灯りをつけて膝をつき、床を手で探って蛾の死骸を探したが、見つからなかった。もしや頭の上でつぶれているのかと思って何度も触ってみたが手ごたえはなかった。司祭は急に恐ろしくなった。すべてをきれいに洗い流したかった。

司祭はなにかにひどく遠慮しながら、なるべく音を立てないように慎重に湯をつかった。深夜に裸になるのは生まれて初めてのことかもしれなかった。後ろめたさとともに奇妙な快感を覚えながら風呂から出た。冷えた空気を全身に感じ、なんとも快かった。洗面所の鏡を見ると、血色のいいさっぱりした顔の男が映っていた。メガネをかけてさらによく見た。顎の線が思いのほかシャープだった。頬にふれるとすべすべしていた。首や胸にも触ってみた。毛穴が開ききって脂ぎっていたはずの肌が、今はとてもきめ細かくさらさらになっていた。乳首と腹回りとすねが毛深いのが惜しく思われた。気が付くと剃刀を手に取り、全身の体毛をできる限り丹念に剃り落としていた。肌はより白さを増し、かつてなく敏感になっていた。ものすごい達成感があった。司祭は今かなりハイになっていた。

全身を映してみるには、洗面所の鏡はあまりに小さかった。モイスト司祭は腰にタオルを巻いただけの裸で、司祭館の玄関に据えてある年季の入った姿見の前に立った。自分の全身をこんなにまじまじと見たのは初めてのことだった。小さな採光窓から入ってくるかすかな月明かりに照らされて、体じゅうが真っ白に光輝いて見えた。ほんの数か月前まで自分でもうんざりするくらい太っていたというのに、この変わりようはなんということだろう!赤みがさしてふっくらした頬、髭の剃り跡の青々とした精悍な顎、全体にほっそりと引き締まり、ほどよく筋肉がついた、若さみなぎる美しい体つき。「これが、私……」司祭は思わず感嘆の声を洩らした。そして力こぶを作ってみて、その硬さを確かめた。続いて、おもむろに腰のタオルをとり、ふんわりと肩にかけてポーズをとってみた。おお、これは、ティツィアーノの描いた美青年アドニスそのものではないか!これまでに感じたことのない全能感に突き動かされ、司祭は獣のごとく咆哮した。「フオオオオッ!」直後、鏡の奥にふっとイエス・キリストの顔が映った。司祭ははっとして振り返った。

トマス・パパドがそこにいた。モイスト司祭に借りた綿の薄いナイティをきちんと着てスリッパをはき、背をやや丸め、両腕をだらんと下げた姿勢で、司祭をじっと見つめていた。パパドの顔にはいかなる表情も浮かんでいなかった。せめて含み笑いのひとつもしてくれていたならどんなに良かっただろう。軽蔑のまなざしでもよかった。パパドの瞳はあまりに澄んでいて、曇りひとつなく、モイスト司祭は刺されたような痛みを感じてよろめいた。両者はそのまましばらく動かなかった。パパドが先に動いた。さっと踵を返し、スリッパをパタパタ言わせながら自室に戻っていこうとした。モイスト司祭の麻痺した舌がようやく動いた。「待ってくれ、パパド、説明させてくれ!」むろん、まともな説明などできそうもなかった。それでも司祭はとりあえずパパドを呼び止めようと懸命に手を伸ばした。そしてベッドから落ちた。

目覚めてすぐ司祭は自分の胸にしっかり手を当ててみた。心臓が早鐘のように打っていた。寝巻のボタンは全部しっかり留まっていて、全身が汗でぐっしょり濡れていた。着替えて再び横になったが、眼が冴えて寝付けなかった。まんじりともせず朝を迎え、かすかに空腹をおぼえて朝食をとろうと部屋を出たが、パパドに挨拶はおろか、まともに目を合わすことさえできなかった。パパドがいつもの屈託のない笑顔で、不思議そうに自分を見ているのを感じた。その日はいつもの散歩にも行かず、部屋にこもって過ごし、浴室にこっそり鞭を持ち込んで、シャワーを浴びる前に自らを鞭うった。コーヒーも紅茶もとらず、心配したパパドがこしらえたなんか甘い粥のようなデザートにもろくに手をつけず、いつもよりかなり早い時間に床についた。それでもやはり奇妙な夢を見た。

司祭は今度は、なにかに導かれるようにパパドの部屋へと向かい、音を立てないようにそっと侵入した。パパドは腰布を巻いただけの姿で寝ていて、司祭はその体毛のほとんどない、よく引き締まって均整の取れた体つきに激しく嫉妬した。パパドは毎日、朝早くからあちこち出かけ、夕方司祭館に戻ってきてからも忙しく動き回っているのに、少しも汗臭くなかった。体臭がほとんどないかのようだった。モイスト司祭は、大の字になって寝ているパパドの脇の下にそっと手をやった。途端にパパドがかっと目を開き、寝台から数センチ浮き上がった。両の掌と足の甲に痛々しい傷跡があらわれ、司祭が触れていた脇の下からも血が流れ始めた。「お赦しください、お赦しください」モイスト司祭は地面にひざまずいて懸命に祈った。そこで目が覚めた。「俺は、俺はいったい何を考えてるんだ!」司祭は寝室の壁に頭を何度も打ち付けた。

R村の図書館に足しげく通い、その惨憺たる姿とそこから類推される村人の知的荒廃ぶりにひどく胸を痛めていたマッケンドリック中佐は、モイスト司祭が人知れず抱える精神の危機にも気づいていた。

「あの男を見ていると、ジャン・パウルのあの物語を思い出さずにはおれん。田舎の小学校教師ヴッツが、貧しくて本が買えずに、新刊本の目録を取り寄せて題名だけ見て、本の内容を想像して自分で書いてしまう。そうしてこしらえた手製の本で書棚を埋めていくうちに、自分の書いた方が本物だと信じ込むようになる。モイストにもそれと似たような手前勝手さがあるよ。もちろん誰も傷つけるものではないが、ただそうした性質は、確実に自分自身を蝕んでいくんじゃ。ヴッツ先生の場合は救いがある。よき伴侶と出会い結ばれたおかげで、世間的には何らおかしなところのない、誰の目にも幸福な人生を歩むことができ、その幸福を真に支える内面の歪みをただその妻と物語の語り手に晒すだけにとどめた。しかし、職業柄、結婚することが許されないモイストはどうじゃろう。確かに良い若者じゃ。善くあろうと努めている。しかし善くあろうとするあまり、誰にも本心を晒すことがない。モイストは皆からやんわりと無視されて、逃げるように毎日散歩に出かけ、ますます孤独になり、自分の世界に籠っていく。他の暇を持て余している聖職者たちのように、聖書や動植物の研究でもすればよいが、どうも辛抱が苦手らしい。若さと体力が取り柄だったが、あの新しくやってきたパパドという男に完全にお株を奪われてしまっておる。パパドは絵にかいたような好青年じゃから。どん詰まりの一歩手前じゃ。かわいそうに。せめて、あのパパドが口をきけたらよい話相手になるんだが」村に来た初日からその知識のほどを村人の多くに対して存分に見せつけ、今では皆から一目置かれているが、言い方を変えればやんわり避けられているにすぎない、パパドを除けば親しい友達がいまだに一人もいないマッケンドリック中佐は、自分のことを棚に上げて、図書館の閲覧スペースの仕切りに向かって独りごちた。結局のところ今やモイスト司祭をさしおいて、中佐こそが村いちばんの変人だった。

R村の知的水準を支える二人のそのような思いなどつゆ知らず、パパドは新たな活動に手を広げていた。村に数人しかいない、学校に通う子供たちのために、ちょっとした食事をつくるようになっていた。パパドはモランボン夫人が言うところの「ちゃんとしたパン」のつくりかたをついにマスターすることはなかったが、その代わりにふすま入りの小麦粉で薄っぺらいクレープのようなものを上手につくった。パンだねを仕込んでいる様子はないのに、パパドが丹念に練った粉を焼くといい具合に膨らんで、軽くてもちもちして、香ばしい焼き目もついた美味しいパンになった。子供たちの給食は、そのようなパンの上に、焼いた鶏肉やスパイシーな衣をつけて揚げた白身の魚や柔らかくふかした芋や豆の類をみじん切りの野菜といっしょにのせてきっちりと巻き込んだ、いわゆるラップサンドで、その中身は日によって変わった。親たちにはおおむね好評で、子供たちの中には最初好まない者もいたが、やがて食べ慣れていった。

村全体がスパイスの香りに包まれる中、モイスト司祭はまだ悩んでいた。散歩の回数は減り、室内で過ごす時間が増えた。にんにくとトマトと玉ねぎとトウガラシとサフランコリアンダーとあとなんか肉桂のような甘ったるい感じもあるなんともいえない強い香りにむせるので台所にはほとんど立ち入らなかったが、それ以外の家事に狂ったように打ち込んでいた。パパドはそんな司祭を不思議そうに眺めながら、モランボン夫人の代わりを立派に務めた。いつしか日が落ちるのが早くなり、外に雪がちらつくようになった。寒くなるにつれ、パパドが少しずつ痩せていった。少しあばらが浮き、頬もこけてきたようだった。ある雪深い夜、司祭館全体が停電した。パパドとモイスト司祭は外に出るのをあきらめ、協力してろうそくの火を灯した。カセットコンロで温めたすばらしいチキンカレーと、胡椒をたっぷりかけたキュウリと玉ねぎのサラダと、干したイチジクで夕食をとった。チキンカレーの上に薄い揚げせんべいのようなものがのっていた。司祭はふとそれを手に取って、ろうそくの灯りに透かしてみた。テーブルの向かいにはいつものようにパパドがいた。干しイチジクを捧げ持って微笑む彼が、せんべいの形作る金色の円形の中にいた。背後から光明を放っているかのようだった。「そうだったのか」司祭は静かにつぶやいた。「ありがとう、私のところへ降りてきてくれて」目の焦点が合っていなかった。パパドは心配そうにその顔を覗き込んだ。

翌朝、村の頑健な男二人を伴ってやってきたシスター・ジェニングスは、司祭館のドアの前に積もった雪を3人がかりで苦労してよけてみて、ドアが内側から硬く施錠されているのに気づいた。鍵屋を呼ぼうとするシスターを制して、粉屋のコッタが体当たりでドアをぶち破った。司祭は寝室にいたが、パパドの姿はどこにもなかった。「彼はどこへ?」そう尋ねたシスター・ジェニングスに応えるというよりも、まるで独り言のように、モイスト司祭は小さな声でつぶやいた。「彼は行ってしまった」その目は大きく見開かれ、ひどく血走っていた。

(つづく?)