劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

トマス・パパド伝 2

ほっそりと痩せた2匹の鹿を思わせる美しい母子が、手をつなぐ代わりに厚手のコットンバッグの持ち手を片方ずつ持って、なんとも睦まじい様子で、ガストンさんの食料雑貨店へと続く長い坂道を下っていく。一日に2回の食事の材料と刺繡糸を買いに行くのである。途中で、緑色のスポーツタイプの自転車に乗った青年とすれ違う。

「おはようございます、司祭様……あら、ミスター・パパド」

村人たちから「パパド」と呼ばれるようになった男は、人懐こい笑顔で「ハロー!」と答えると、モイスト司祭に借りた自転車の後ろに何か大きな荷物をくくりつけて、上り坂にもかかわらず滑るように走り去った。サリー・メイヤーと娘のマリーは、大きな目と華奢な顎のお互いにそっくりな顔を見合わせてしばらく立ち止まっていた。

「すごい体力ねえ。あの人今度は何を買ってきたのかしら」

「スパイスか小麦粉ね。パパドさんの前掛けにはいつも黄色と白の粉がいっぱいついてるもの」

「不思議ね、あの司祭様のお家にそんなにお金があるようにも思えないけれど」

この母子がとくに口さがないわけではない。若い司祭がわずかな給金でつましい生活を送っているのは村人の誰しも知っているところだったので、似たような疑問を持つ者は他にもいた。実際にはモイスト司祭の経済的負担はごく軽いもので、パパドは外で働いてそれなりに稼いでいた。

7月初旬のミサにおける司祭の説教はいつになく長いもので、集まった70人ほどの村人たちのほとんどは年寄りだったので、司祭が話し始めて30分もすると半数ほどは舟をこいでいたが、それでもこの変わった名前の青年が根っからの善人でたいへんな働き者で、皆に温かく迎えてほしいと思っている、という司祭の言葉をとくに疑うこともなかった。もっと言うとモイスト司祭の周辺の出来事にさしたる興味もなく、ただこんな雨のしのつく朝に家にいても暇だし憂鬱になるばかりだし、シスター・ジェニングスの演奏するオルガンに合わせてみんなで歌うのはそう悪い気分のするものではなかった。それに、新入りの男はその若さと善良さを態度でもって示した。パパドは英語の讃美歌を朗々と歌った。雨脚はだんだん激しくなり時おり雷も鳴ったが、それらの音が霞むほどの力強い歌声で、彼の発音の奇妙さや歌詞の覚え間違いがその場にいた全員にはっきりと意識された。しかしそれで人々はむしろ彼に好感を抱いた。

パパドは司祭館の空き室に住まわせてもらっていたが、日の出ているうちはほとんど外に出ていた。司祭が庭にほっぽり出していたロードバイクを駆って村じゅうを回り、老人や体の不自由な人たちの掃除洗濯を手伝い、料理をつくり、必要なら屋根や垣根の修繕を試みたり野良仕事に加わったりして男たちの信頼をも得た。都会の連中が百貨店で買い求める高価で大きな海綿のかたまりのように、パパドの脳みそはあらゆることを瞬時に吸収するかのようだった。司祭の真似をして讃美歌を音で覚えたし、家事や農作業を見て覚えるのも、簡単なあいさつをしたり店の看板を読んだりできるようになるのも驚異的に早かった。しかし、村人たちの会話に参加することはなかった。いつも黙ってほほ笑んでおり、何か言うとしても、幼児が喋るような二語文でたいていの用をこなしていた。パパドの仕事ぶりに感心していた農夫たちも、初めてのミサでの堂々とした流暢な歌いぶりを耳にした人たちも一様に不思議がった。彼ならば、やろうとしてできないこととも思われなかった。何人かは面と向かって彼に尋ねてみた。しかしパパドはあいまいな微笑を浮かべるばかりで、複雑な内容を喋ることは決してなかった。村人たちは、そういう性格なのだろうと無理やり納得せざるを得なかった。司祭は毎日自分より早く起きてどこかへ行ってしまうパパドのことを不思議に思いはしたが、自分も日中はほとんど散歩に出ていることだし、夕方になると必ず帰ってきて、モランボン夫人が来られない日にも夕食作りを手伝ってくれて、同じ食卓を囲んでくれる彼のことを基本的に信頼していたし、なにより最初の一か月で意思疎通の難しさを痛感して、ややめんどくさくなってきていたのも事実だった。

パパドは様々な仕事をこなし、給料の額を気にせず、出されたものを素直に受け取った。明らかにケチろうとしていた人はやがて後ろめたさを覚え、適正な額を出そうと努めた。パパドがくる以前はろくに外に出られずに不衛生な空気にむせつつひっそりと生きていた少なからぬ人たちは、初めのうちは彼に感謝するあまり必要以上の額を渡してしまうこともあったが、彼があまりに無批判に受け取るのでかえって気の毒になったり、いつも来てくれるので安心したり、あまりに何度も来てくれるので自分のたくわえを改めて意識したりするようになって、無理をしなくなった。惜しんで一銭も出さない者も、不相応な大金を渡す者もやがていなくなった。

パパドはそのようにしてある程度の額を貯めると、早朝か日没間際の時間を狙って、奇妙な買い物に出かけるようになった。野菜に大きな傷があったり割れていたりするとそこから腐りやすく、市場はおろか身内にも売りにくいし、もし傷がなくともマンドラゴラを思わせる不吉でどこか猥褻な形だったりすると、信仰心がないわけではないのでこれも売れないしで困ってしまうところだが、パパドはこういう明らかな瑕疵のある野菜を好んで買い求め、その日のうちに使った。老人たちのスープが具沢山になった。製粉後にどうしても残るふすまの部分をたくさん含んだ不出来な小麦粉を粉屋から直接買った。チーズをこしらえたあとに残る上澄み液も喜んで買った。これらは捨てるか家畜の飼料にするかしか使い道がないので、粉屋も酪農家も初めは喜んで代金を受け取ったが、やがて恥じてほとんどタダ同然で提供するようになった。そして司祭様は鶏かヤギでも飼い始めたのだろうか、あの暮らしぶりなら無理もないが気の毒なことだ、などとひそかに言い合った。実際には司祭館のたいして広くない庭には鶏もヤギもおらず、肉は普通に肉屋で買っていたが、パパドは不思議なことに高価な脂身も人気のある皮の部分も固辞したので、その分またお金が浮いた。そうするとどこからか信じられないほど大量のトウガラシをはじめとしたスパイスを買い込んできた。やけに色鮮やかな粉末状のものや木の皮にしか見えないものもあり、モランボン夫人にとっては正直なところ不気味だったが、最近は体の調子が思わしくない日も多く毎日は司祭館へ通えないし、なにより主であるモイスト司祭が放任している以上は何も言えなかった。夫人が料理をしているときには手伝うけれど決して余計なことをしないパパドに対してもまだかなり好感を持っており、最後の一か月間でどうにかして彼にちゃんとしたパンやケーキや伝統的なイギリス料理を伝授したいと思っていた。町で教師をしている娘から、こっちのほうが村より少しは便利がいいから一緒に暮らさないかという誘いが何度もあり、来月まで待ってもらっていた。

夫人の思いをよそに、パパドは買い集めたスパイスを司祭館の自室で調合し、まずは司祭の食事に使い始めた。司祭館から不思議な香りが漂い始め、パパドの前掛けには色とりどりの染みがつき、洗ってもなかなか落ちなかった。とくにターメリックサフランの黄色はどうしても残った。そうすると、あんなによく太っていた司祭が最近なんだか痩せてきた、パパドが毒でも盛っているんじゃないか、などと言い始める者が出てきた。しかしそれにしてはモイスト司祭の痩せ方は健康的だったし、肌つやもよくなり男ぶりもよくなったようであった。司祭自身も、パリッとした鶏皮を口にする機会が減ったのが不満ではあったが、料理の味は良いし、このところ動きやすくなったとも感じていた。

毒のうわさが消えると今度は、パパドが怪しげな取引をしているのを見た、と誰からともなく言い始めた。町でときどき見かけるロマの一団と外国語で流暢に会話していたと。一見何の非の打ちどころもなく屈託なさげで、しかしどこかつかみどころがないようでもあるパパドに対する悪感情が、ここへきてやや燻りつつあった。教会の付近ではさすがに皆口を慎んだが、村じゅう走り回っているパパドがうわさを知らないはずはなかった。しかし彼は何の弁解もしなかった。季節は移り、秋になろうとしていた。

モランボン夫人がR村を去ることを決めたのとほぼ時を同じくして、マッケンドリック中佐が村に戻ってきた。彼は十代で志願して軍隊に入り、アジアや中東諸国に赴任し、最後に派遣されたエジプトだかシリアだかの風土がいたくお気に召して長いこと住んでいたが、このたび故郷を終の棲家とすべく帰って来たのだった。体格はさほど良くなくどちらかと言えば小柄だが、60を過ぎて杖なしでかくしゃくと歩き、眉毛はなお黒々とし、濃い灰色の瞳に鋭い眼光をたたえた迫力のある男で、彼をよく知らない村人たちもなんとなく一目置かざるを得なかった。なんでも陸軍の情報部で活躍したかなりの切れ者という話だった。モランボン夫人を送り、中佐を村に迎えるためのささやかなパーティーが、ろくに活用されてこなかった校舎で行われた。マッケンドリック中佐は、パパドが運んでくる赤いカレーや謎の煮物にいちいち舌鼓を打ち、しきりに褒めたたえた。

「おお、ジャガイモのチョッチョリじゃないかこれは。懐かしいな。これが作れるなら、君、サモサもできるんじゃないかね。もう少し辛くして、ちょっと皮で包んで揚げてな。わしはあれが大好きなんだよ」

中佐があまり美味そうに食べるので他の参加者も徐々に、パパドの持ってきた見慣れない料理に手を付け始めた。悪くなかった。みんなが料理に夢中になっている隙に、中佐はパパドの肩を引き寄せてヒンディー語で囁いた。「ところで君、その名前はほんとかね?」パパドはあいまいな微笑を浮かべ、やや首を傾げた。そして中佐の腕からするりと逃げて、司祭のほうへと歩いて行った。

かくして、R村のあちこちからスパイスの香りがするようになった。

(つづく)