劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

きっかけ

源一郎は猪の親子が山に帰っていくのを、猟銃の先を地面に向け、決して再び上げることのないように祈りながら、息をつめて眺めていた。瓜坊が一匹、親から離れて、源一郎のほうへ駆け寄ってきた。やめてくれ、俺に撃たせないでくれ、と思いながら、源一郎は瓜坊と親猪とを交互に見やった。親のほうが興奮して向かってくる様子はなかった。源一郎はホッとため息をつきながら、すでに彼の足元まで来ていた瓜坊を見下ろした。瓜坊は源一郎をまっすぐ見た。黒真珠のようなくもりなき瞳。そこに自分の顔が写っているのまではっきり見えた気がしたそのとき、瓜坊が言った。「ナチョス」はっきりした発音だった。弾むような、小学校低学年の男の子みたいな声だった。源一郎の脳裏に、長いこと会っていない孫の顔がよぎり、思わず声に出して呟いた。「ひとし」瓜坊はゆっくりと後ずさり、踵を返して親のもとへと走り去った。うろたえる源一郎をよそに、猪の親子は深い山奥へと消えていった。源一郎の眼鏡は真っ白に曇っていた。眼鏡をぬぐおうとは思ったが手が動かず、足の感覚もなかった。全身が痺れて動かせなかった。冷えきっているのだと思った。死ぬかもしれないとふと思ったが不思議と恐ろしくはなかった。そのまま全身の感覚が戻ってくるまで、数十分か数時間か、とにかくただ待つしかなかった。やがて肩の辺りが熱くなってきて、腕と指が動かせるようになり、頬が濡れて冷たいのを感じ、自分が泣いていたのに気づいた。家に帰り熱いコーン茶をすすりながら、源一郎は突然思い出した。瓜坊の尻尾が鮮やかな緑色だったのを。あれはたしかに蛇の尻尾だった。今日のことは人には言えないな、と源一郎は思った。自分の目と頭のはたらきの精確さには自信があったが、今それが揺らいでいることを認めざるを得なかった。奇妙な快さがあった。明日から焼きイモ屋さんをはじめよう、と急に思い、その思いつきにひとりほくそ笑んだ。(おわり)