劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

小さなコートニーの話

アジズ・アバジャン博士と彼の研究チームは、通常の人の何倍ものスピードで成長する脳の開発に成功した。脳じたいは大人のこぶしくらいの大きさで、分厚い球形の強化ガラスでできた水槽に隙間なく充填された培養液に浸かっていた。ミニ脳の水槽には特殊な装置がつながれ、人間の血液に限りなく近い成分の液体を供給するとともに脳波を測定していた。装置につないで数時間後にようやく、睡眠中の新生児に近い波形が確認できた。

脳ができてから一週間たち、人工血液のパックを定期的に取り換えさえすれば、他に特別なことをせずとも脳が生き続けることが確認できると、研究チームはこの脳に名前と顔を与えた。ユリア・ギルモフ博士が「コートニー」と命名した。アメリカ人と結婚した娘から初孫ができたと電話があったばかりで、その子からとったのだった。コートニーの顔の皮膚は劣化しにくい樹脂製で、できあいのものだったが、目の部分に簡単な小型カメラが、口の中にはスピーカーが組み込まれ、頭の空洞には球形の水槽をすっぽり収めることができた。集音器は都合上、頭の両側面ではなく顔の前面、つまり鼻のある場所につけられた。頭は台座にしっかりと固定された。コートニーは目の前にいる人の顔をぼんやりと見て、その人の発言を聞きとり、それらのかなり限定された情報を処理して、気が向いたときに合成音声で喋ることができるはずだった。

世界各国から集められた十数名の研究チームは血液交換のたびにコートニーに熱心に話しかけた。しかし彼女は一言も発しなかった。ある夜、助手のジュゼッペ・エスポジートがおそるおそるコートニーに近づいたとき、突然コートニーが、アバジャン博士の母国語であるアラビア語ではっきりと「おちんちんのパン」と言った。ジュゼッペは大男だったが、血液パックをとり落として逃げた。研究チームの面々は、人工血液とジュゼッペの小便にまみれた樹脂製の頭部がアラビア語で同じ言葉を連呼するのをしばし呆然と眺めた。

「博士、どういう意味なんですか」

「意味などない」アバジャン博士は苦々しくつぶやいた。ギルモフ博士がタオルとアルコール綿でコートニーを慈しむように拭いてやった。そのとたん、コートニーはロシア語とドイツ語で「おちんちんのパン」と叫んだ。さっきよりも明らかに音量が大きかった。調節する機能などついていないはずなのに。こうしてチームの全員がアバジャン博士の奇癖を知った。ストレスが溜まっているのだろうと思われた。彼らはコートニーのために自由に動かせるロボットアームを二本つくってやり、アバジャン博士には三週間の休暇を与えた。代理でギルモフ博士がチーム全体を統べる立場となった。

コートニーは簡単な図形のような絵を描くようになり、5カ国語以上であいさつができるようになった。市販の、男とも女ともつかない無機質な顔をかぶせられていながら、今のコートニーには2,3歳の女の子のような愛らしさがあった。研究員たちはだんだんとコートニーに親しみを感じ始めた。とくに、責任が増して家族との時間が減ったギルモフ博士の熱の入れようはすさまじかった。孫のために買った絵本を見せながら、人間の幼子にするように話しかけ、触覚がないのに頭をなでてやり、子守唄を歌った。アバジャン博士のことがあって、コートニーのある部屋には監視カメラが付けられていたので、ユリアおばあちゃんの度を越した振る舞いは筒抜けだったが、他のメンバーも程度の差こそあれ似たようなことをしていたので、とくにとがめだてする者はなかった。コートニーに与える情報を限定するのはこの実験における重要な方針のひとつだったのだが、みんなもう忘れていたか、あるいはあえて無視していた。

「これがライオン、これがしまうまさん、こっちはネコちゃん」

「今日はすごい雨ねえ。聞こえる?」

「今日はいい天気だけど近くで大きな工事をやってるわねえ」

窓に背を向けた状態で台座に固定されて、コートニーはそれらの声を聴いた。外から入ってきた小さなクモやハエを、ロボットアームが優しくつまんだ。

コートニーの手はかなり器用に動くようになってきていた。カメラの性能がさほどよくないので細部はぼやけているはずなのに、壁に貼られた説明書通りにレゴブロックを組み立てることができた。やがて説明書にない配置をあえてして「遊ぶ」ようになった。モーターの付いたプラモデルの車を与えると、ドライバーやペンチなどをうまく使って、車輪が回る仕組みの部分から先に作りはじめた。次の日に見ると、プラモデルの上半分が床に捨てられ、車輪のついた板がコートニーの首の下敷きになって割れていた。台座に首を留めているネジはすべて外されていた。危うく断線するところだった。研究員たちはコートニーの「意図」を理解し、より丈夫な車輪付きの台にコートニーの首と腕を装置や蓄電池とともに据えてやった。コートニーは部屋の壁をつたうように走ったり止まったりを繰り返し、やがてドアの近くで研究員を待ち伏せて、誰かがドアを開けた隙に部屋を出ようとするようになった。だが誰も心配していなかった。車輪の大きさは部屋のしきいを越えられるほどではなかったし、仮にどうにかして部屋を出たところで、人工血液を定期的に替えなければ脳がもたないしバッテリーが切れれば装置が止まってしまうので、研究所の外へ出ることは決してないだろうと科学者たちは考え、コートニーのやりたいようにさせておいた。ただ一人ジュゼッペだけが彼女を恐れていたが、それは単に見た目が怖いという意味らしかった。「あの無機質な顔が近づいてくるだけで怖いんだよ。それでも死なすわけにいかないから仕方なしに傍へ行くとさ、なんか物理的に引き寄せられる感じがしたり、反対にはねのけられそうになったりすることがあるんだよ。ぜったい変な力がはたらいてるんだ」そう言っておびえるジュゼッペを同僚たちはせせら笑い、やがて無視した。

連日の猛暑に加え、近所の工事が本格化して騒音がひどくなり、活動に支障が出始めたので、この機会に皆で四日ほど休暇をとろうということになった。四日後にはアバジャン博士の長いお休みも終わる予定だった。研究員三人がコートニーの管理とデータ収集のために研究所に残された。優秀だが不潔で遅刻も多くチーム内での評価の芳しくないモンテイロと、アバジャン博士の腰ぎんちゃくでハゲでやもめでワーカホリックのスタイルズのほかに、あれほど怖がっていたジュゼッペも最初の失態の責任をとらされて残ることになった。ジュゼッペは最初かなり抵抗していたが、昇給と一週間の休暇を提示されて折れた。

スタイルズは大きな手で頭をさすりながら大きなため息をついた。「あの腰抜け、けっきょく休みやがって」

「まあ、またションベンで汚されても困るしな」モンテイロは汚い爪楊枝をゴミ箱に向けて放りながら言った。爪楊枝はゴミ箱のへりに当たって外に落ちた。

彼らはコートニーの技術の向上の程度を見るために研究所で出た廃材を適当に見繕って与え、工作をさせていた。コートニーはたった一日で、見た目は武骨だが通電させればちゃんと動きそうなロボットアームを二本こしらえた。一見すると素晴らしい成果のようだったが、結局は自らの腕の粗悪なコピーだった。見たものを発展させてより良いものを作る能力がないのか、学習が足りないだけなのかは判断しかねた。廃材を抱えてコートニーの部屋の前まで来た二人は、ドア越しに威勢のいい声を聞いた。

「ああ、もちろんさ!」ジュゼッペの声らしかった。

「なんだ、来てたのか」スタイルズはほっとしてドアを開けた。満面の笑みをたたえた上半身裸のジュゼッペがいた。身体の十箇所以上を機械につないでいた。

「おたくの研究員がうちの建築資材を盗んでます。この目で見ました。二人とも白衣を着て首からカードを提げてたんで間違いありません。一人は四角い眼鏡をかけていてかなり禿げてました」

この信じがたい苦情を受けて休暇を早めに切り上げて研究所に戻ったチームの面々はまず、見事に日焼けした肌に上下白のスーツを着てレイバンの変なサングラスをかけ、ジャケットの下のVネックのシャツからわずかに胸毛をはみ出させてまるで『マイアミ・バイス』の刑事みたいになったアバジャン博士を見て仰天した。研究所に残した問題の三人の姿も、盗まれたという資材も見当たらないので皆が「とりあえず携帯にかけてみようか」などと言っていると、アバジャン博士がさっとサングラスを取って叫んだ。「おいてめえら、手分けして探すぞ!」博士は物腰まで変わっていた。

皆真っ先にコートニーの部屋へ向かったが、ドアが開かなかった。ドアノブは回るのだが、内側から圧がかかっている感じだった。そこでとりあえず監視カメラを見てみた。人の姿はなく、巨大なクモのような黒い塊が部屋の壁に沿って同じ方向にひたすら移動していた。誰よりも早くアバジャン博士が消防斧を持ってドアに突進した。

壁じゅうが真っ赤だった。真っ赤な部屋の中を、六本のロボットアームをせわしなく動かして疾走していたコートニーは、研究員たちの姿に気づくとポルトガル語で「こんにちは!」と元気よく言い、壁に擦り付けていたモンテイロの残骸を彼らの目の前に放り投げた。削れて元の半分くらいの大きさになっていた。ユリア婆さんの心臓が止まった。コートニーは六本の脚を折り曲げてしゃがんだ。その奥にコートニーがもともと置いてあった机があった。机の下からはぐにゃぐにゃに折れ曲がった足がのぞいていた。ハゲのスタイルズかジュゼッペの末路らしかった。

「コートニーを止めよう。正面からだとすぐやられてしまうだろうが、彼女は横を向けない。どうにかして彼女の脇に回り込みたい」アバジャン博士が言った。

「あんたはリーダーだ。俺たちが行く」博士より足の速い若い研究員二人が右と左に分かれて駆けだした。ネイティブアメリカンの血を引くジョーはアバジャン博士から受け取った斧を、細いひげを生やしたフランス人のシモンは金槌を手に、コートニーの両側面に回ると一気に距離をつめて、脳を狙ってそれぞれの武器をふりおろした。コートニーは自らの頭部と生命維持装置を鉄のかごで保護していた。金属音が部屋に鳴り響いた。コートニーの頭部は、アルミサッシかなにかをきれいに曲げて作ったと思しき円い枠にはまっていて、その中であらゆる方向に回るようになっていた。軸がまっすぐな地球儀のようにコートニーの頭がぐるりと一回転して、鉄のかご越しに二人の敵を見た。そして彼女はその前脚、つまり一番手前に取り付けられた、研究員たちがかつて彼女にプレゼントしたいちばん精巧な作りの二本のロボットアームでこの勇敢な男たちをわしづかみにして空高く放り投げた。立派な二つの頭蓋骨が地面に叩きつけられて紙粘土のように潰れた。

「おのれ」アバジャン博士はなるべく低い姿勢をとりつつ拳銃を構えた。

「おかえりなさい!」イタリア語で言いながらコートニーはスカートをまくるように手前の脚四本を高く上げて後ろ脚二本だけで立った。斜めになった土台の裏側がはっきり見えた。ジュゼッペが磔にされていた。身体に何本ものコードが繋がれている。コートニーに新しい血を送り続けるためだけに生かされているのだった。彼の同僚たちは思わず息をのんだ。でかいくせに臆病でみんなから小馬鹿にされてはいたが、他の二人と違って彼は確かに愛されていた。

ジュゼッペを人質にして見せびらかしながら、コートニーは銃を構えたアバジャン博士の前に立ちはだかった。人間たちの敗北は明らかなように思われた。しかしアバジャン博士はまったく躊躇することなくジュゼッペごとコートニーを三発も撃った。長い休暇中にいったい何があったんだろう。「なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?」コートニーは腕をめちゃくちゃに振り回して暴れ、アバジャン博士を思い切り跳ね飛ばした。アバジャン博士は白いスーツ姿で回転しつつ華麗に宙を舞い、壁に激突した。背骨が折れたのが自分でもわかった。アドレナリンが出まくっていて痛みこそなかったが、やがて死の恐怖が襲ってきた。いつもの陰気でスケベなアバジャンが戻ってきた。「おちんちんのパン」一言呟いてこと切れた。なぜか少し満足気であった。銃撃の成果を知っていたのかもしれない。三発のうち一発がコートニーの頭部を貫通していた。裏側を見せたのがあだになった。

六本の脚を中途半端に折り畳み、コートニーは斜めに崩れ落ちた。両目の奥に火花が散った。カメラがだめになったのだった。灰色の培養液が漏れ出し、樹脂製の顔をボロボロにした。その醜いさまは幼児の大泣きのようであり、また、老化現象のようでもあった。他のフロアから借りてきた消防斧やスコップや金槌など、手に手にさまざまの武器を持った研究員たちが部屋の中になだれ込み、すでに無力化したコートニーを叩きのめし、切り刻んだ。自らを守るかごと大きな六本の脚が少しずつ切断され解体されていくのを感じたコートニーは、小さな声で子守唄を歌いはじめた。

(おわり)