劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

45分で書いた話

すきっ腹を抱えてあてどなく街をさまよっていた私は、とある和菓子屋の店先で次のような会話を漏れ聞いた。

「あそこの家はな、車庫つくるのに立派なイチジクの木を根こそぎ抜いてしもうたから祟りにあったんじゃ」

「次男さんも駄目じゃったしなあ」

そっくりの顔をした二人の老婆が、そんな話をしながらうまそうに渋茶を啜っていた。床几のへりには大きなモナカがふたつ手つかずのまま置かれていた。私は食い詰めていたが、それでもなるべく善良な者からは奪いたくないと思っていた。他人の不幸をスパイスにおやつを楽しむ目の前の二人はまぎれもなく邪悪な人間であると決めてかかった私は、モナカを一個すばやくかすめ取って逃げた。

走り出してから後悔の念が襲ってきた。ただの世間話じゃないか。大した罪ではない。か弱い老人のささやかな楽しみを勝手な判断で奪ってしまったのだ。そのような思いが足取りを遅くさせた。松平健に似た店主が棒のようなものを手に私を追ってきていた。そのすぐ後ろに婆さんの姿も見えた。かなり速い。驚くべきことに、モナカを盗られていないほうの婆さんもついてきていた。罪悪感と恐怖が私の脚をもつれさせた。「もはやこれまでか」私は走るのをやめてモナカを平らげた。もう口をつけてしまっていたし、返したところで許されはしないと分かっていたからだ。

捕まったのは初めてだった。私には二つの選択肢が与えられた。和菓子屋での生涯にわたる奉仕活動か、施設への収容であった。私は施設を選んだ。罪を悔いてはいたが、それでも一生縛られるつもりはなかったからだ。しかしすぐに後悔することになった。施設は実にひどいところだった。収容されてすぐに私は武器をすべて没収されてしまった。肌身離さず持ち歩き毎日丁寧に研いだ自慢の飛び出しナイフだった。続いて入浴を強制されたが、なんとも粗末なシャワーで水はひどく冷たかった。食事は土くれにしか見えず、味もほとんどなかった。次々に屈辱を与えて私のプライドを削いでいくつもりのようだった。しかし私はめげなかった。

雑居房の連中はみな私と同じくらい若く、中にはかなり血の気の多いのもいて、彼らが暴れる様子は私の士気を高めてくれた。荒々しいふるまいを好まない者はたいてい食い気に走っているか収集癖があるかで、見ているとそれなりに愉快ではあった。デブのジェリーは小石や光るもののコレクションをよく見せてくれたし、ロジャーは虫を捕まえるのが得意だった。

そんな中でひときわ異彩を放っていたのがステファニーで、男なのにステファニーと名乗っている時点でそうとう変わり者ではあるのだが、暇さえあれば念入りに髭を抜き、美しい長い髪を丹念にくしけずり、自らのケアに余念がなかった。その甲斐あって、彼はその名に恥じぬ艶やかな美しさを手にしていた。身のこなしも完璧で、彼がそばを通り抜けるとき、その腰つきに目をやらずにいられなかった。心なしか甘い香りもするようだった。シャンプーはみな同じはずなのだが。

ステファニーは三日分の食料と引き換えに誰とでも寝るという噂が立った。食料の交換は禁止されていたが半ば公然と行われ、性的接触についてはかなり厳しい罰則があったにも関わらず、看守の目を盗んで頻繁に行われた。夜になるとあちこちから苦痛と歓喜の入り混じったうめき声や叫び声が聞こえてきた。私は全身の血がたぎるのを感じながらも、毛布を抱いて固く目をつぶった。私はまだ女を知らなかった。本当の恋を知る前に他の連中のような冒険に出るつもりはなかった。しかし悪いことになぜだかステファニーは私を気に入っていて、何かと体に触れたり戯れに顔を舐めたりして、そのたびに決心が揺らぎそうになるのだった。

収容期間はそう長くないはずなのに牢名主同然に傍若無人にふるまっていた巨漢のジョーがある日突然おとなしくなった。すっかり牙を抜かれたようだった。抜かれたのが牙ではなく別のものであることをステファニーが教えてくれた。去勢されていたのだった。このことは私をひどく震え上がらせた。さらに恐ろしいことには、施設に収容された者は素行のよくない順にだいたい二週間以内に去勢されてしまうのだという。夜ごとのうめき声は性的行為そのものではなく疑似的なもので、お互いを噛みあって欲望を発散しているのだった。私はたまたま積極的に粗暴な振る舞いに及ぶことがなかったので後回しにされているのだろうが、そう遠くない日に処置されてしまうだろうとステファニーは言った。

脱獄は決して難しくなかった。日光浴の時間にちょっとした小競り合いがあり、看守がそれに気を取られているうちに私は日陰に移り、そうっと塀に上った。ステファニーが毛布を裂いて丸めて私によく似たおとりを作ってくれていたが、それを使う必要はなかった。塀を超える瞬間に私はふと振り返った。ステファニーが私をじっと見ていた。デブのジェリーも。早く行けというふうに揃って顎をしゃくって見せた。私は塀を飛び降り、音もなく着地した。しばらく行ってからまた振り返った。誰も追ってきていなかった。あまりの呆気なさにめまいがした。

めまいは暑さのせいでもあるようだった。走りながら何度かふらついた。小さな公園があった。地面には遊具が撤去された痕があった。木が一本もなかった。噴水を探したがなかった。木陰も、ベンチさえもなかった。家を持たない者の居場所はこうして奪われていくのだと思った。水が欲しかった。蛇口を探したがなかった。やがて、水たまりを見つけたら顔をつけて飲もうとさえ思いはじめた。しかしその水たまりさえなかった。私は途方に暮れた。真っ白な服を着た子供が向こうから歩いてきた。夏の死神は白い服を着てるんだろうか。

目がつぶれそうなほどまぶしい太陽の照りつける熱いアスファルトの上で、枯葉とセミの死骸がいっしょくたに踏みしだかれていた。セミは自らの油でからっと揚がっていた。私は枯葉の中から慎重にセミをよりわけて口に入れた。サクサクとして口当たりよく、わずかに水分も感じた。だんだん元気が出てきた。すぐそばのマンションの前の花壇に生えているなんだかよくわからない雑草をかじった。薄味の土くれのような食事に飽いた口に、草の青臭さと強い苦みがなんとも心地よかった。少し緩んでいる蛇口も見つけた。したたる水を舌にのせ、喜びに打ち震えた。ふと思いついて、先ほどのセミの食べ残しを花壇に埋めてやった。きっと良い肥やしとなって、このささやかなオアシスをさらに豊かにすることだろう。

仕上げに小便をかけているところへ、マンションの大家らしき爺さんが出てきて、「コリャ!」と叫びながら箒を振り回した。フォームがまるでなっておらず、私の敵ではなかった。私は箒をひらりとよけて塀に飛び乗りニャアと鳴いた。そして向かいの家の窓から注がれる視線に気づいた。まんまるのきれいな目だ。縞模様の美しい、なんとも素晴らしい毛並み。体の線の優美なこと。なんていい女なんだ!爺さんの箒の次なる一撃を尻に食らう前に、彼女とのデートの約束をとりつけることに成功した。去り際に窓を見やると彼女が確かにウインクした。生きるぞ!

(おわり)