劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

トマス・パパド伝 1

R村の人口は500人に満たないほどで、ほとんどが農業を営んでいた。毎朝早くに男たちはそれぞれの仕事道具を持って畑や森へ入っていき、日がとっぷり暮れてから戻ってきた。女たちが買い物をする店はだいたい決まっていて、みんな午前中にすませてしまってあとは家事にかかるので、昼過ぎにはほとんど人通りがなかった。じつに活気のないところだった。村の中心にはなかなか立派で趣味の良い教会が建っていて、傍には16歳くらいまでの子たちが通って読み書きそろばんを習う学校と、かなり昔からあるそれなりの広さを誇るレンガ造りの図書館があったが、どこもさびれていた。親を手伝う代わりに学校に行かせてもらえる子供はせいぜい十数人しかいなかったし、図書館の本の大部分は誰の手にも取られることなくただほこりをかぶり虫が食うままになっていた。教会での仕事のほかに図書館の司書を兼ねるシスター・ジェニングスはカウンターの下にベストセラー本とマンガと戦記物とワーズワースの詩集をいつでも取り出せるように固めて置いていて、いつもそれだけで事足りたのだった。

R村において力仕事に縁のない唯一の男であるハロルド・モイスト司祭はまだ30をちょっと過ぎたくらいで若々しく、頑健で、エネルギーにみちており、そのよく太った体と旺盛な好奇心は、教会に併設された上品なクリーム色のこじんまりした司祭館はもちろん、広いだけでほとんど死にかけたかび臭い図書館にもとうてい収まりきるものではなかった。司祭はしばしば歩いてずいぶん遠くまで散歩に出た。かつては子供たちを連れて町まで遠足に出て映画など見せて帰るのが好きだったが、そうすると親としてはいくら司祭が心配するなと言ったところで心配になるし、子供たちは小遣いを欲しがるし、弁当も持たせなければならないし、なかなかいい顔をされなかった。一人になると司祭の散歩の時間はさらに長くなり距離も日に日に増え、今では彼がどこまで行って帰ってくるのかちゃんと知っている村人は一人もいなかった。司祭はどんなに遠くに行ったとしてもその日のうちに戻ってきて行方不明になることはなく、そもそも教会で働く3人のシスターと司祭館の家政婦モランボン夫人のほかには彼のことを気にするものはとくにいなかった。村人たちはみなモイスト司祭をそれなりに良い若者と思ってはいたがそこまで強く尊敬はしていなかったし、そう熱心な信徒でもなかった。誰もが日々の仕事を一番に考え、よそ者が現れて自分たちの食い扶持が奪われるのを最も恐れていた。

だからある夏の日、司祭が散歩に出て戻らず、次の日の夕方になって、泥だらけの半裸の男を背中に背負ってふうふう言いながら帰って来たときにはみんなが驚いた。どこでその裸ん坊を拾ってきたのか司祭はよく覚えていなかった。いつになく遠くまで行ってしまい、暑さでくらくらしてきて、ちょっとどこかで休んでから戻ろうかと思っているときに、畑のわきのぬかるみに落ちているのを見つけたのだという。恐る恐る近づいてみるとしっかり息はしていて、ただ服を着ておらず、足にひどいけがをしていた。周りに建物もなく人もおらず、このまま置いていくに忍びなかったので、自分の上着を着せてやり水筒の水を飲ませ、背負って連れ帰ってきたのだった。男は朦朧としているのか、司祭館の周りに集まってきた人々の顔をぼんやりと見るだけで一言もしゃべらなかった。モランボン夫人と、むかし町の病院で働いていたミズ・ユンケルは、困惑しながらも司祭と協力して、かいがいしく男の世話をやいた。

男の肌は褐色で、よくやせていたが健康だった。足のけがは見た目ほどひどくなく、ミズ・ユンケルの処置も良かったので、男は三週間ほどすると回復した。しかし、やはり一言も話さなかった。謎の男は彫りの深い独特の顔立ちをしており、黒いよく動く瞳をもち、笑うと歯並びの悪さが目立ったが、どこか人をひきつけるところがあった。どこから来たのかも、名前も歳もわからなかったが、意識がはっきりしてきたころ、オートミールを持ってきたモランボン夫人の手をとってほほ笑んだその様子から、モイスト司祭は男の善良さと夫人への心からの感謝の意を読み取った。男は夫人の仕事ぶりを興味深げに眺め、自由に歩けるようになると進んで手伝うようになった。なかなか要領が良かったし、モランボン夫人の腰の具合が最近よくなかったこともあって、司祭はこの男にもうしばらく居てもらいたいと思うようになった。教会で働く人々はおおむね男に好感を持っているように見えたが、他の多くの村人たちの目が心配だった。そこで司祭は男に次のミサに出席してもらうことにした。

それにあたりモイスト司祭は男を聖堂に案内し、身振り手振りを交えながらできるかぎりつぶさにミサの流れを説明した。男は長いまつげをしばたたかせながら聖堂のあちこちを司祭にぴったりついて歩き、司祭が何か話すたびに深く頷いてじっくりと聞き入っているように見えた。司祭が聖餅を手にして舌にのせる真似をしていたとき、今までまったく話さなかった男が小さな声でポツリと一言、「Papad?」とつぶやいた。

「パパド?君はパパドっていうのか?」司祭が聖餅を持ったまま尋ねると男は力強く頷いた。「パパドはラストネームなのかな?」男はまた頷いて、「Papad!」と嬉しそうにはっきりと言った。若々しい、跳ねるような響きだった。モイスト司祭の心に、たぶん自分と同い年くらいのこの男へのさらなる親近感とともに、深い喜びと、なにか確信めいたものが沸き上がった。「君の意思がはっきり確認できないから、今すぐ君に洗礼を授けることはできない、しかし、今日は7月3日で聖トマス使徒の日だから……そう、トマス、君をこの名前で呼ぶことにするよ。トマス・パパド。かまわないかな?」男は微笑んで頷いた。

(つづく)