劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

シモーヌの芋

暗く深いブローニュの森を抜けて、シモーヌは朝市への道を急いだ。黒い華奢な自転車をほとんど前のめりになって力強く漕ぐたびに、肩から下げた頭陀袋も大きく揺れた。朝市はどこももうほとんど閉まりかけていたが、シモーヌのお目当ては最初から、八百屋の木箱の底に残ったちぎれた菜っ葉や大きな傷のあるトマト、熟れすぎたリンゴ、こぼれ落ちたブドウの粒などだった。しかしその日はいつになく几帳面に拾い尽くされていて、シモーヌはようやく見つけたかなり萎びたニンジンの葉っぱを嚙みながら途方に暮れた。寒風が吹きすさんでいた。石畳の硬さが疲れた足にこたえた。グレーのコートの襟を立てて、自転車を押してとぼとぼ歩いていると、バス停のベンチに腰掛けている老紳士の姿が目に入った。読みかけの分厚い本を開いて膝に置いたまま、険しい顔で眠り込んでいる。シモーヌの目を引いたのは、その本の横にいかにもつまらなそうに転がっている三角形の紙包みから顔をのぞかせている、ほとんど手を付けられていない焼き栗だった。老紳士の隣に腰掛け、すぐにも揺さぶって起こしたい衝動を抑えつつ、優しく声をかけてみる。

「ごめんあそばせ、ムッシュー、どうか栗を」

老紳士は微動だにしない。シモーヌが丸眼鏡の奥のまつ毛の長い目をこらしてみると、なんと彼は頭に角を生やしている。

「あの、どうかお怒りにならないで。ただ、栗をわけていただきたいだけなんです。もちろんタダでとは申しません。芋を、芋をさしあげますわ」

シモーヌは頭陀袋から芋をひとつかみ取り出して見せながら懸命に訴えた。老紳士は地面に根を張ったように動かない。ついにしびれを切らしてその肩をつかみ、揺さぶろうとしてみてようやく、彼が背後から槍でベンチに串刺しにされているのに気づいた。わかってみれば何のことはない、頭の角は突き出た槍の穂先だったというわけだ。今時パリではこの程度のことはそう珍しくない。しいて言えば、出血がまったくないように見えるのは不思議だった。おかげで眠っているようにしか見えない。表情にこそわずかに苦悶のあとを残しているが、手をきちんと膝の上に置いているし、清潔そうだし、服装もきちんとしていた。ここにきてシモーヌは老紳士に好感を持ち始めた。

「貴方、きっとリュシアンといい友達になれたわ」

とりあえず彼に焼き栗はもう必要なさそうだった。紙包みをそっと引き寄せて、その場でひとつつまんでみた。美味しかった。冷めて硬くなりはじめているけれど、もういちど火を通せば大丈夫だろう。老紳士の膝の上の本が風でめくれた。シモーヌはそっと本を閉じた。プーシキンだった。プーシキンの本がなぜこんなに分厚いのかと一瞬思ったが、とりあえず本が落ちないように、彼の両手を本の上で組んでやり、そこにさらに芋を置いた。感謝のしるしを残しておきたかった。

栗の紙包みを頭陀袋に突っ込んで自転車を押して立ち去ろうとしたところに何かが飛んできて、シモーヌのブーツと自転車の泥除けを茶色く汚した。顔を赤く塗りフードをかぶった数人の子供たちがけたたましく笑い、シモーヌがにらみつけると、茶色いものを両手に持ったまま、転びそうになりながら走り去った。パリに来るたびに何度か目にしたことはあったが、いたずらをされたのは初めてだった。彼らが野良猫に向けてパチンコで松ぼっくりマロニエの実を飛ばしているのを見て眉をひそめつつ、とくに叱りもしなかったが、人を標的にするほど増長していたとは。

「世の中どんどん悪くなっていきますわね」

シモーヌは老紳士に呼びかけた。あらためて見ると、頭頂部から突き出た槍の穂先が痛々しかった。シモーヌは頭陀袋の中からいちばん大きな芋を手探りでつかみ出すと、槍の穂先にしっかりと刺し、残虐な行為の痕跡を隠してやった。今や彼は立派な芋を頭にのせ、膝の上にももう一個のせて、安らかに眠っているようにしか見えなかった。二つの安納芋のあいだで彼の魂が安寧に満ちていることをシモーヌは心から願った。

空は曇り、風が強くなってきていた。枯葉の舞う中を、きしむ自転車を押して公園を横切りながら、いくら世の中が悪くなろうともすれっからしにはなりたくないものだ、とシモーヌは思い、背筋を伸ばした。ボール遊びをする親子や、真剣に見つめあっているカップルや、のんびりと鳩に餌をやる老婦人の傍を通りすぎるうちに、だんだんと晴れやかな心持ちになっていった。シモーヌの放つ芋の匂いに誘われてか、鳩が一羽、群れを離れてついてきているのに彼女は気づいた。シモーヌが見つめると、鳩は小さな首をかしげた。頭が小さいわりに体が大きく見えた。鳩はずいぶんよく肥っていた。今晩の献立は決まった。シモーヌは鳩がついてきているのを時々確認しながら公園を出て、細い路地に入った。路地は薄暗く人通りがなかった。頭陀袋の底から、分厚い長くつ下に小石を詰めて縛ったものを取り出し、足音を殺して鳩に近づいた。鳩は地面にこびりついた何かしらを熱心につついている。薄闇の中でシモーヌの丸眼鏡がきらりと光った。