劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

おさかな天国 1日目

私の父方の家系は男が若くして狂い死にしやすいと祖母からよく聞かされて育った。事実、私の父は40を前にして台所で上等の革靴を喉に詰まらせて死んだ。その時私は5歳で、昼間は無邪気にアンパンマンポテトを食べ、縁側で虫眼鏡を使ってアリを焼いたりダンゴムシをミニカーで轢いたりして遊んでいたが、夜になると大きな黒い影のような靄のようなものが自分の布団の中へスルリとすべりこんでくるような漠然とした不安に襲われ、しまじろうのぬいぐるみを力いっぱい抱きしめて泣き叫んだものだった。悪夢にうなされる私を母は心配していたはずだが、私は当時その不安な胸の内を語るのに適切な言葉をもたなかったし、祖母は母がいない時を見計らって、その場にいる他の親戚の大人に向けて話すようにして巧妙に私を怖がらせるのだった。

それでも中学に上がる頃に祖母が壊れたレコードのようになってからは私の恐怖心は薄れ、その代わりに化学の試験の点数やビル・エヴァンスのボックスセットの値段、野球部の里中に会わないようにする方法、となりの席の吉田さんはあんなに優しくてきれいなのになぜいつも靴下が異様に汚れているのかなど、より切実な悩みや疑問が頭の中を占めるようになった。

そのようにして私は自然と祖母のかけた呪いから解放されていったはずだったのだが、銀行に勤めて4年目の28歳の冬に、親戚中で最も自由人と呼ぶにふさわしく、高校卒業後すぐに日本を離れ、放浪ののち、ベルギーの小さな町ポントにて靴屋をやっていた私の敬愛する叔父が突如亡くなり、長らく忘れていた呪われた血筋への恐怖が再燃した。叔父は35歳になったばかりで、行きつけの喫茶店でいつものベーコンとワッフルの朝食をとったあと、隣町の骨とう品店へ行き、そこで奇跡的に見つけた不二家のペコちゃんの等身大フィギュアと心中したのだった。「シュレミー靴店」の共同経営者兼私生活においてもパートナーだったフーベルトが叔父を発見した。彼はかつてないほどに安らかな笑顔を浮かべていた、とフーベルトは心底悔しそうにSkypeの画面の向こうから語った。その情報は私にとってなんの救いにもならなかった。おぼろげに思い描いていたほんのり甘めの将来設計が音を立てて崩壊した。

気づくと私は貯金を全額おろし、北へ向かっていた。そうしてより良い死に場所を求めてたどり着いたネリモ岬で、私は運命の女に出会った。彼女の名はすり美といった。

展望台にいた客の中で、彼女は最もミステリアスに見えた。はっとするようなだいだい色の、体にぴったり合ったノースリーブのワンピースを着て、首には黒いチョーカーをつけ、金属製の銀色の髪留めで髪をひとつにまとめ、大きな円いサングラスをかけていた。上着を脱いで差し出すと彼女は私の手をとり、サングラスを外してにっこりと笑った。喫茶スペースで少し話したはずだが、何を話したのか全く覚えていない。言われるままに彼女のマンションの部屋までついて行って関係を持った。服を脱ぐのももどかしく、下着だけ取って慌ただしく事を終えたあと、すり美が服を着たままでシャワーを浴びに行くのを見送った。

そこでふと冷静になって、ここ数時間の出来事を思い返してみると、あまりにも異常に感じられた。彼女は最初から尋常ならざる雰囲気を発していた。顔の造作も普通ではなかった。夢中になっていて気付かなかったが、目が離れすぎてはいなかったか。ワンピースを最後まで脱がなかったのも気になった。ずっと手を握り合って離さなかったのは、背中のファスナーに触らせないためではないのか?

そして、高校2年の夏にひとりで映画館に見に行った『異人たちとの夏』を思い出した。邪な期待があったために学生証を出さずに通常料金で見て、バカバカしい展開にいささか後悔はしたものの、情事の場面の奇妙な切迫感や、その最中に名取裕子がかたくなに隠していた胸の傷はそれなりにリアルに感じられた。恋に溺れた主人公はだんだんと衰弱していくのだった。そして今自分もかつてなく疲れていた。すべてを出し切ってしまったような気持ちだった。

年齢のわりにおかしな話だ、と思いかけて、もともと死にに来たことを思い出し、それなのに自分はまだ若くて気力も十分にあるという矛盾した自負があったことに気づいて独り苦笑した。度を越した疲労ぶりに驚くあまり、彼女をこの世ならざる存在であるかのように思い始めていたのも可笑しかった。そうであるわけがないし、もし仮にそうだったとして、このような形で死に誘われるなら願ってもないことじゃないか。

すり美がゆったりした部屋着に着替えて戻ってきたのを見て、私のバカげた疑念は拭い去られた。リラックスした雰囲気が増し、よりうち解けたようで嬉しかった。湯上りの肌に赤みがさして美しかった。顔を改めてよく見てみると、確かに目は平均よりは少し離れているようだったが、それがむしろ魅力的だった。こんな生き生きとしたすばらしい人を前にして、つい先ほどまでくだらない空想をしていた自らを恥じた。それはそれとして胸は見たかったので正直に頼むと、すり美はひとしきり笑って「この次ね」と言った。

(つづく)