劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

小さなコートニーの話

アジズ・アバジャン博士と彼の研究チームは、通常の人の何倍ものスピードで成長する脳の開発に成功した。脳じたいは大人のこぶしくらいの大きさで、分厚い球形の強化ガラスでできた水槽に隙間なく充填された培養液に浸かっていた。ミニ脳の水槽には特殊な装置がつながれ、人間の血液に限りなく近い成分の液体を供給するとともに脳波を測定していた。装置につないで数時間後にようやく、睡眠中の新生児に近い波形が確認できた。

脳ができてから一週間たち、人工血液のパックを定期的に取り換えさえすれば、他に特別なことをせずとも脳が生き続けることが確認できると、研究チームはこの脳に名前と顔を与えた。ユリア・ギルモフ博士が「コートニー」と命名した。アメリカ人と結婚した娘から初孫ができたと電話があったばかりで、その子からとったのだった。コートニーの顔の皮膚は劣化しにくい樹脂製で、できあいのものだったが、目の部分に簡単な小型カメラが、口の中にはスピーカーが組み込まれ、頭の空洞には球形の水槽をすっぽり収めることができた。集音器は都合上、頭の両側面ではなく顔の前面、つまり鼻のある場所につけられた。頭は台座にしっかりと固定された。コートニーは目の前にいる人の顔をぼんやりと見て、その人の発言を聞きとり、それらのかなり限定された情報を処理して、気が向いたときに合成音声で喋ることができるはずだった。

世界各国から集められた十数名の研究チームは血液交換のたびにコートニーに熱心に話しかけた。しかし彼女は一言も発しなかった。ある夜、助手のジュゼッペ・エスポジートがおそるおそるコートニーに近づいたとき、突然コートニーが、アバジャン博士の母国語であるアラビア語ではっきりと「おちんちんのパン」と言った。ジュゼッペは大男だったが、血液パックをとり落として逃げた。研究チームの面々は、人工血液とジュゼッペの小便にまみれた樹脂製の頭部がアラビア語で同じ言葉を連呼するのをしばし呆然と眺めた。

「博士、どういう意味なんですか」

「意味などない」アバジャン博士は苦々しくつぶやいた。ギルモフ博士がタオルとアルコール綿でコートニーを慈しむように拭いてやった。そのとたん、コートニーはロシア語とドイツ語で「おちんちんのパン」と叫んだ。さっきよりも明らかに音量が大きかった。調節する機能などついていないはずなのに。こうしてチームの全員がアバジャン博士の奇癖を知った。ストレスが溜まっているのだろうと思われた。彼らはコートニーのために自由に動かせるロボットアームを二本つくってやり、アバジャン博士には三週間の休暇を与えた。代理でギルモフ博士がチーム全体を統べる立場となった。

コートニーは簡単な図形のような絵を描くようになり、5カ国語以上であいさつができるようになった。市販の、男とも女ともつかない無機質な顔をかぶせられていながら、今のコートニーには2,3歳の女の子のような愛らしさがあった。研究員たちはだんだんとコートニーに親しみを感じ始めた。とくに、責任が増して家族との時間が減ったギルモフ博士の熱の入れようはすさまじかった。孫のために買った絵本を見せながら、人間の幼子にするように話しかけ、触覚がないのに頭をなでてやり、子守唄を歌った。アバジャン博士のことがあって、コートニーのある部屋には監視カメラが付けられていたので、ユリアおばあちゃんの度を越した振る舞いは筒抜けだったが、他のメンバーも程度の差こそあれ似たようなことをしていたので、とくにとがめだてする者はなかった。コートニーに与える情報を限定するのはこの実験における重要な方針のひとつだったのだが、みんなもう忘れていたか、あるいはあえて無視していた。

「これがライオン、これがしまうまさん、こっちはネコちゃん」

「今日はすごい雨ねえ。聞こえる?」

「今日はいい天気だけど近くで大きな工事をやってるわねえ」

窓に背を向けた状態で台座に固定されて、コートニーはそれらの声を聴いた。外から入ってきた小さなクモやハエを、ロボットアームが優しくつまんだ。

コートニーの手はかなり器用に動くようになってきていた。カメラの性能がさほどよくないので細部はぼやけているはずなのに、壁に貼られた説明書通りにレゴブロックを組み立てることができた。やがて説明書にない配置をあえてして「遊ぶ」ようになった。モーターの付いたプラモデルの車を与えると、ドライバーやペンチなどをうまく使って、車輪が回る仕組みの部分から先に作りはじめた。次の日に見ると、プラモデルの上半分が床に捨てられ、車輪のついた板がコートニーの首の下敷きになって割れていた。台座に首を留めているネジはすべて外されていた。危うく断線するところだった。研究員たちはコートニーの「意図」を理解し、より丈夫な車輪付きの台にコートニーの首と腕を装置や蓄電池とともに据えてやった。コートニーは部屋の壁をつたうように走ったり止まったりを繰り返し、やがてドアの近くで研究員を待ち伏せて、誰かがドアを開けた隙に部屋を出ようとするようになった。だが誰も心配していなかった。車輪の大きさは部屋のしきいを越えられるほどではなかったし、仮にどうにかして部屋を出たところで、人工血液を定期的に替えなければ脳がもたないしバッテリーが切れれば装置が止まってしまうので、研究所の外へ出ることは決してないだろうと科学者たちは考え、コートニーのやりたいようにさせておいた。ただ一人ジュゼッペだけが彼女を恐れていたが、それは単に見た目が怖いという意味らしかった。「あの無機質な顔が近づいてくるだけで怖いんだよ。それでも死なすわけにいかないから仕方なしに傍へ行くとさ、なんか物理的に引き寄せられる感じがしたり、反対にはねのけられそうになったりすることがあるんだよ。ぜったい変な力がはたらいてるんだ」そう言っておびえるジュゼッペを同僚たちはせせら笑い、やがて無視した。

連日の猛暑に加え、近所の工事が本格化して騒音がひどくなり、活動に支障が出始めたので、この機会に皆で四日ほど休暇をとろうということになった。四日後にはアバジャン博士の長いお休みも終わる予定だった。研究員三人がコートニーの管理とデータ収集のために研究所に残された。優秀だが不潔で遅刻も多くチーム内での評価の芳しくないモンテイロと、アバジャン博士の腰ぎんちゃくでハゲでやもめでワーカホリックのスタイルズのほかに、あれほど怖がっていたジュゼッペも最初の失態の責任をとらされて残ることになった。ジュゼッペは最初かなり抵抗していたが、昇給と一週間の休暇を提示されて折れた。

スタイルズは大きな手で頭をさすりながら大きなため息をついた。「あの腰抜け、けっきょく休みやがって」

「まあ、またションベンで汚されても困るしな」モンテイロは汚い爪楊枝をゴミ箱に向けて放りながら言った。爪楊枝はゴミ箱のへりに当たって外に落ちた。

彼らはコートニーの技術の向上の程度を見るために研究所で出た廃材を適当に見繕って与え、工作をさせていた。コートニーはたった一日で、見た目は武骨だが通電させればちゃんと動きそうなロボットアームを二本こしらえた。一見すると素晴らしい成果のようだったが、結局は自らの腕の粗悪なコピーだった。見たものを発展させてより良いものを作る能力がないのか、学習が足りないだけなのかは判断しかねた。廃材を抱えてコートニーの部屋の前まで来た二人は、ドア越しに威勢のいい声を聞いた。

「ああ、もちろんさ!」ジュゼッペの声らしかった。

「なんだ、来てたのか」スタイルズはほっとしてドアを開けた。満面の笑みをたたえた上半身裸のジュゼッペがいた。身体の十箇所以上を機械につないでいた。

「おたくの研究員がうちの建築資材を盗んでます。この目で見ました。二人とも白衣を着て首からカードを提げてたんで間違いありません。一人は四角い眼鏡をかけていてかなり禿げてました」

この信じがたい苦情を受けて休暇を早めに切り上げて研究所に戻ったチームの面々はまず、見事に日焼けした肌に上下白のスーツを着てレイバンの変なサングラスをかけ、ジャケットの下のVネックのシャツからわずかに胸毛をはみ出させてまるで『マイアミ・バイス』の刑事みたいになったアバジャン博士を見て仰天した。研究所に残した問題の三人の姿も、盗まれたという資材も見当たらないので皆が「とりあえず携帯にかけてみようか」などと言っていると、アバジャン博士がさっとサングラスを取って叫んだ。「おいてめえら、手分けして探すぞ!」博士は物腰まで変わっていた。

皆真っ先にコートニーの部屋へ向かったが、ドアが開かなかった。ドアノブは回るのだが、内側から圧がかかっている感じだった。そこでとりあえず監視カメラを見てみた。人の姿はなく、巨大なクモのような黒い塊が部屋の壁に沿って同じ方向にひたすら移動していた。誰よりも早くアバジャン博士が消防斧を持ってドアに突進した。

壁じゅうが真っ赤だった。真っ赤な部屋の中を、六本のロボットアームをせわしなく動かして疾走していたコートニーは、研究員たちの姿に気づくとポルトガル語で「こんにちは!」と元気よく言い、壁に擦り付けていたモンテイロの残骸を彼らの目の前に放り投げた。削れて元の半分くらいの大きさになっていた。ユリア婆さんの心臓が止まった。コートニーは六本の脚を折り曲げてしゃがんだ。その奥にコートニーがもともと置いてあった机があった。机の下からはぐにゃぐにゃに折れ曲がった足がのぞいていた。ハゲのスタイルズかジュゼッペの末路らしかった。

「コートニーを止めよう。正面からだとすぐやられてしまうだろうが、彼女は横を向けない。どうにかして彼女の脇に回り込みたい」アバジャン博士が言った。

「あんたはリーダーだ。俺たちが行く」博士より足の速い若い研究員二人が右と左に分かれて駆けだした。ネイティブアメリカンの血を引くジョーはアバジャン博士から受け取った斧を、細いひげを生やしたフランス人のシモンは金槌を手に、コートニーの両側面に回ると一気に距離をつめて、脳を狙ってそれぞれの武器をふりおろした。コートニーは自らの頭部と生命維持装置を鉄のかごで保護していた。金属音が部屋に鳴り響いた。コートニーの頭部は、アルミサッシかなにかをきれいに曲げて作ったと思しき円い枠にはまっていて、その中であらゆる方向に回るようになっていた。軸がまっすぐな地球儀のようにコートニーの頭がぐるりと一回転して、鉄のかご越しに二人の敵を見た。そして彼女はその前脚、つまり一番手前に取り付けられた、研究員たちがかつて彼女にプレゼントしたいちばん精巧な作りの二本のロボットアームでこの勇敢な男たちをわしづかみにして空高く放り投げた。立派な二つの頭蓋骨が地面に叩きつけられて紙粘土のように潰れた。

「おのれ」アバジャン博士はなるべく低い姿勢をとりつつ拳銃を構えた。

「おかえりなさい!」イタリア語で言いながらコートニーはスカートをまくるように手前の脚四本を高く上げて後ろ脚二本だけで立った。斜めになった土台の裏側がはっきり見えた。ジュゼッペが磔にされていた。身体に何本ものコードが繋がれている。コートニーに新しい血を送り続けるためだけに生かされているのだった。彼の同僚たちは思わず息をのんだ。でかいくせに臆病でみんなから小馬鹿にされてはいたが、他の二人と違って彼は確かに愛されていた。

ジュゼッペを人質にして見せびらかしながら、コートニーは銃を構えたアバジャン博士の前に立ちはだかった。人間たちの敗北は明らかなように思われた。しかしアバジャン博士はまったく躊躇することなくジュゼッペごとコートニーを三発も撃った。長い休暇中にいったい何があったんだろう。「なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?」コートニーは腕をめちゃくちゃに振り回して暴れ、アバジャン博士を思い切り跳ね飛ばした。アバジャン博士は白いスーツ姿で回転しつつ華麗に宙を舞い、壁に激突した。背骨が折れたのが自分でもわかった。アドレナリンが出まくっていて痛みこそなかったが、やがて死の恐怖が襲ってきた。いつもの陰気でスケベなアバジャンが戻ってきた。「おちんちんのパン」一言呟いてこと切れた。なぜか少し満足気であった。銃撃の成果を知っていたのかもしれない。三発のうち一発がコートニーの頭部を貫通していた。裏側を見せたのがあだになった。

六本の脚を中途半端に折り畳み、コートニーは斜めに崩れ落ちた。両目の奥に火花が散った。カメラがだめになったのだった。灰色の培養液が漏れ出し、樹脂製の顔をボロボロにした。その醜いさまは幼児の大泣きのようであり、また、老化現象のようでもあった。他のフロアから借りてきた消防斧やスコップや金槌など、手に手にさまざまの武器を持った研究員たちが部屋の中になだれ込み、すでに無力化したコートニーを叩きのめし、切り刻んだ。自らを守るかごと大きな六本の脚が少しずつ切断され解体されていくのを感じたコートニーは、小さな声で子守唄を歌いはじめた。

(おわり)

トマス・パパド伝 3

もう冬が近いというのにその夜はやけにじめじめして、体中がべとついている感じがした。おまけに頭の中でブンブンという虫の羽音のような耳障りな音がずっと鳴り続けていた。モイスト司祭はあまりに寝つかれないので仕方なくベッドから出て、スリッパをはくのが面倒なので素足のままで窓を開けに行った。床も心なしかべとべとしていた。カーテンを開けると墨を流したような空が見えた。

窓を少し開け、ひんやりした空気を一瞬肌に感じてうっとりした途端、小鳥と見まごうようなめちゃくちゃでかい蛾が窓に突進してきて、茶色くて分厚い羽をバタバタとガラスに叩きつけた。大きな目と異様に太い触覚、そしてやけにふさふさした見た目がなんとも不気味だった。司祭はあわてて窓を閉めようとしたが、一瞬反応が遅れて、蛾は室内に入ってきた。そして、ジジジジッ!ジジジジッ!とやかましい羽音を立てながら寝室を一回りし、不意に司祭の頭にとまった。虫とは思えない、よく太ったスズメにでも乗られたかと思うような確かな質量を感じた。頭のてっぺんから足の先にまで稲妻に打たれたかのごとき戦慄が走った。「うわわわ」モイスト司祭は無我夢中で頭を振り、髪の毛を何度も手ではたいて蛾を追い払おうとした。蛾の重みはすぐに消えた。やがて冷静になり、自らの立場を思い出した。聖職者が殺生はまずい。両手を見ると鱗粉がたくさんついていた。部屋はしんと静まり返り、自らのたてる粗い息遣いのほかには何の物音もなかった。ベッドサイドの灯りをつけて膝をつき、床を手で探って蛾の死骸を探したが、見つからなかった。もしや頭の上でつぶれているのかと思って何度も触ってみたが手ごたえはなかった。司祭は急に恐ろしくなった。すべてをきれいに洗い流したかった。

司祭はなにかにひどく遠慮しながら、なるべく音を立てないように慎重に湯をつかった。深夜に裸になるのは生まれて初めてのことかもしれなかった。後ろめたさとともに奇妙な快感を覚えながら風呂から出た。冷えた空気を全身に感じ、なんとも快かった。洗面所の鏡を見ると、血色のいいさっぱりした顔の男が映っていた。メガネをかけてさらによく見た。顎の線が思いのほかシャープだった。頬にふれるとすべすべしていた。首や胸にも触ってみた。毛穴が開ききって脂ぎっていたはずの肌が、今はとてもきめ細かくさらさらになっていた。乳首と腹回りとすねが毛深いのが惜しく思われた。気が付くと剃刀を手に取り、全身の体毛をできる限り丹念に剃り落としていた。肌はより白さを増し、かつてなく敏感になっていた。ものすごい達成感があった。司祭は今かなりハイになっていた。

全身を映してみるには、洗面所の鏡はあまりに小さかった。モイスト司祭は腰にタオルを巻いただけの裸で、司祭館の玄関に据えてある年季の入った姿見の前に立った。自分の全身をこんなにまじまじと見たのは初めてのことだった。小さな採光窓から入ってくるかすかな月明かりに照らされて、体じゅうが真っ白に光輝いて見えた。ほんの数か月前まで自分でもうんざりするくらい太っていたというのに、この変わりようはなんということだろう!赤みがさしてふっくらした頬、髭の剃り跡の青々とした精悍な顎、全体にほっそりと引き締まり、ほどよく筋肉がついた、若さみなぎる美しい体つき。「これが、私……」司祭は思わず感嘆の声を洩らした。そして力こぶを作ってみて、その硬さを確かめた。続いて、おもむろに腰のタオルをとり、ふんわりと肩にかけてポーズをとってみた。おお、これは、ティツィアーノの描いた美青年アドニスそのものではないか!これまでに感じたことのない全能感に突き動かされ、司祭は獣のごとく咆哮した。「フオオオオッ!」直後、鏡の奥にふっとイエス・キリストの顔が映った。司祭ははっとして振り返った。

トマス・パパドがそこにいた。モイスト司祭に借りた綿の薄いナイティをきちんと着てスリッパをはき、背をやや丸め、両腕をだらんと下げた姿勢で、司祭をじっと見つめていた。パパドの顔にはいかなる表情も浮かんでいなかった。せめて含み笑いのひとつもしてくれていたならどんなに良かっただろう。軽蔑のまなざしでもよかった。パパドの瞳はあまりに澄んでいて、曇りひとつなく、モイスト司祭は刺されたような痛みを感じてよろめいた。両者はそのまましばらく動かなかった。パパドが先に動いた。さっと踵を返し、スリッパをパタパタ言わせながら自室に戻っていこうとした。モイスト司祭の麻痺した舌がようやく動いた。「待ってくれ、パパド、説明させてくれ!」むろん、まともな説明などできそうもなかった。それでも司祭はとりあえずパパドを呼び止めようと懸命に手を伸ばした。そしてベッドから落ちた。

目覚めてすぐ司祭は自分の胸にしっかり手を当ててみた。心臓が早鐘のように打っていた。寝巻のボタンは全部しっかり留まっていて、全身が汗でぐっしょり濡れていた。着替えて再び横になったが、眼が冴えて寝付けなかった。まんじりともせず朝を迎え、かすかに空腹をおぼえて朝食をとろうと部屋を出たが、パパドに挨拶はおろか、まともに目を合わすことさえできなかった。パパドがいつもの屈託のない笑顔で、不思議そうに自分を見ているのを感じた。その日はいつもの散歩にも行かず、部屋にこもって過ごし、浴室にこっそり鞭を持ち込んで、シャワーを浴びる前に自らを鞭うった。コーヒーも紅茶もとらず、心配したパパドがこしらえたなんか甘い粥のようなデザートにもろくに手をつけず、いつもよりかなり早い時間に床についた。それでもやはり奇妙な夢を見た。

司祭は今度は、なにかに導かれるようにパパドの部屋へと向かい、音を立てないようにそっと侵入した。パパドは腰布を巻いただけの姿で寝ていて、司祭はその体毛のほとんどない、よく引き締まって均整の取れた体つきに激しく嫉妬した。パパドは毎日、朝早くからあちこち出かけ、夕方司祭館に戻ってきてからも忙しく動き回っているのに、少しも汗臭くなかった。体臭がほとんどないかのようだった。モイスト司祭は、大の字になって寝ているパパドの脇の下にそっと手をやった。途端にパパドがかっと目を開き、寝台から数センチ浮き上がった。両の掌と足の甲に痛々しい傷跡があらわれ、司祭が触れていた脇の下からも血が流れ始めた。「お赦しください、お赦しください」モイスト司祭は地面にひざまずいて懸命に祈った。そこで目が覚めた。「俺は、俺はいったい何を考えてるんだ!」司祭は寝室の壁に頭を何度も打ち付けた。

R村の図書館に足しげく通い、その惨憺たる姿とそこから類推される村人の知的荒廃ぶりにひどく胸を痛めていたマッケンドリック中佐は、モイスト司祭が人知れず抱える精神の危機にも気づいていた。

「あの男を見ていると、ジャン・パウルのあの物語を思い出さずにはおれん。田舎の小学校教師ヴッツが、貧しくて本が買えずに、新刊本の目録を取り寄せて題名だけ見て、本の内容を想像して自分で書いてしまう。そうしてこしらえた手製の本で書棚を埋めていくうちに、自分の書いた方が本物だと信じ込むようになる。モイストにもそれと似たような手前勝手さがあるよ。もちろん誰も傷つけるものではないが、ただそうした性質は、確実に自分自身を蝕んでいくんじゃ。ヴッツ先生の場合は救いがある。よき伴侶と出会い結ばれたおかげで、世間的には何らおかしなところのない、誰の目にも幸福な人生を歩むことができ、その幸福を真に支える内面の歪みをただその妻と物語の語り手に晒すだけにとどめた。しかし、職業柄、結婚することが許されないモイストはどうじゃろう。確かに良い若者じゃ。善くあろうと努めている。しかし善くあろうとするあまり、誰にも本心を晒すことがない。モイストは皆からやんわりと無視されて、逃げるように毎日散歩に出かけ、ますます孤独になり、自分の世界に籠っていく。他の暇を持て余している聖職者たちのように、聖書や動植物の研究でもすればよいが、どうも辛抱が苦手らしい。若さと体力が取り柄だったが、あの新しくやってきたパパドという男に完全にお株を奪われてしまっておる。パパドは絵にかいたような好青年じゃから。どん詰まりの一歩手前じゃ。かわいそうに。せめて、あのパパドが口をきけたらよい話相手になるんだが」村に来た初日からその知識のほどを村人の多くに対して存分に見せつけ、今では皆から一目置かれているが、言い方を変えればやんわり避けられているにすぎない、パパドを除けば親しい友達がいまだに一人もいないマッケンドリック中佐は、自分のことを棚に上げて、図書館の閲覧スペースの仕切りに向かって独りごちた。結局のところ今やモイスト司祭をさしおいて、中佐こそが村いちばんの変人だった。

R村の知的水準を支える二人のそのような思いなどつゆ知らず、パパドは新たな活動に手を広げていた。村に数人しかいない、学校に通う子供たちのために、ちょっとした食事をつくるようになっていた。パパドはモランボン夫人が言うところの「ちゃんとしたパン」のつくりかたをついにマスターすることはなかったが、その代わりにふすま入りの小麦粉で薄っぺらいクレープのようなものを上手につくった。パンだねを仕込んでいる様子はないのに、パパドが丹念に練った粉を焼くといい具合に膨らんで、軽くてもちもちして、香ばしい焼き目もついた美味しいパンになった。子供たちの給食は、そのようなパンの上に、焼いた鶏肉やスパイシーな衣をつけて揚げた白身の魚や柔らかくふかした芋や豆の類をみじん切りの野菜といっしょにのせてきっちりと巻き込んだ、いわゆるラップサンドで、その中身は日によって変わった。親たちにはおおむね好評で、子供たちの中には最初好まない者もいたが、やがて食べ慣れていった。

村全体がスパイスの香りに包まれる中、モイスト司祭はまだ悩んでいた。散歩の回数は減り、室内で過ごす時間が増えた。にんにくとトマトと玉ねぎとトウガラシとサフランコリアンダーとあとなんか肉桂のような甘ったるい感じもあるなんともいえない強い香りにむせるので台所にはほとんど立ち入らなかったが、それ以外の家事に狂ったように打ち込んでいた。パパドはそんな司祭を不思議そうに眺めながら、モランボン夫人の代わりを立派に務めた。いつしか日が落ちるのが早くなり、外に雪がちらつくようになった。寒くなるにつれ、パパドが少しずつ痩せていった。少しあばらが浮き、頬もこけてきたようだった。ある雪深い夜、司祭館全体が停電した。パパドとモイスト司祭は外に出るのをあきらめ、協力してろうそくの火を灯した。カセットコンロで温めたすばらしいチキンカレーと、胡椒をたっぷりかけたキュウリと玉ねぎのサラダと、干したイチジクで夕食をとった。チキンカレーの上に薄い揚げせんべいのようなものがのっていた。司祭はふとそれを手に取って、ろうそくの灯りに透かしてみた。テーブルの向かいにはいつものようにパパドがいた。干しイチジクを捧げ持って微笑む彼が、せんべいの形作る金色の円形の中にいた。背後から光明を放っているかのようだった。「そうだったのか」司祭は静かにつぶやいた。「ありがとう、私のところへ降りてきてくれて」目の焦点が合っていなかった。パパドは心配そうにその顔を覗き込んだ。

翌朝、村の頑健な男二人を伴ってやってきたシスター・ジェニングスは、司祭館のドアの前に積もった雪を3人がかりで苦労してよけてみて、ドアが内側から硬く施錠されているのに気づいた。鍵屋を呼ぼうとするシスターを制して、粉屋のコッタが体当たりでドアをぶち破った。司祭は寝室にいたが、パパドの姿はどこにもなかった。「彼はどこへ?」そう尋ねたシスター・ジェニングスに応えるというよりも、まるで独り言のように、モイスト司祭は小さな声でつぶやいた。「彼は行ってしまった」その目は大きく見開かれ、ひどく血走っていた。

(つづく?)

トマス・パパド伝 2

ほっそりと痩せた2匹の鹿を思わせる美しい母子が、手をつなぐ代わりに厚手のコットンバッグの持ち手を片方ずつ持って、なんとも睦まじい様子で、ガストンさんの食料雑貨店へと続く長い坂道を下っていく。一日に2回の食事の材料と刺繡糸を買いに行くのである。途中で、緑色のスポーツタイプの自転車に乗った青年とすれ違う。

「おはようございます、司祭様……あら、ミスター・パパド」

村人たちから「パパド」と呼ばれるようになった男は、人懐こい笑顔で「ハロー!」と答えると、モイスト司祭に借りた自転車の後ろに何か大きな荷物をくくりつけて、上り坂にもかかわらず滑るように走り去った。サリー・メイヤーと娘のマリーは、大きな目と華奢な顎のお互いにそっくりな顔を見合わせてしばらく立ち止まっていた。

「すごい体力ねえ。あの人今度は何を買ってきたのかしら」

「スパイスか小麦粉ね。パパドさんの前掛けにはいつも黄色と白の粉がいっぱいついてるもの」

「不思議ね、あの司祭様のお家にそんなにお金があるようにも思えないけれど」

この母子がとくに口さがないわけではない。若い司祭がわずかな給金でつましい生活を送っているのは村人の誰しも知っているところだったので、似たような疑問を持つ者は他にもいた。実際にはモイスト司祭の経済的負担はごく軽いもので、パパドは外で働いてそれなりに稼いでいた。

7月初旬のミサにおける司祭の説教はいつになく長いもので、集まった70人ほどの村人たちのほとんどは年寄りだったので、司祭が話し始めて30分もすると半数ほどは舟をこいでいたが、それでもこの変わった名前の青年が根っからの善人でたいへんな働き者で、皆に温かく迎えてほしいと思っている、という司祭の言葉をとくに疑うこともなかった。もっと言うとモイスト司祭の周辺の出来事にさしたる興味もなく、ただこんな雨のしのつく朝に家にいても暇だし憂鬱になるばかりだし、シスター・ジェニングスの演奏するオルガンに合わせてみんなで歌うのはそう悪い気分のするものではなかった。それに、新入りの男はその若さと善良さを態度でもって示した。パパドは英語の讃美歌を朗々と歌った。雨脚はだんだん激しくなり時おり雷も鳴ったが、それらの音が霞むほどの力強い歌声で、彼の発音の奇妙さや歌詞の覚え間違いがその場にいた全員にはっきりと意識された。しかしそれで人々はむしろ彼に好感を抱いた。

パパドは司祭館の空き室に住まわせてもらっていたが、日の出ているうちはほとんど外に出ていた。司祭が庭にほっぽり出していたロードバイクを駆って村じゅうを回り、老人や体の不自由な人たちの掃除洗濯を手伝い、料理をつくり、必要なら屋根や垣根の修繕を試みたり野良仕事に加わったりして男たちの信頼をも得た。都会の連中が百貨店で買い求める高価で大きな海綿のかたまりのように、パパドの脳みそはあらゆることを瞬時に吸収するかのようだった。司祭の真似をして讃美歌を音で覚えたし、家事や農作業を見て覚えるのも、簡単なあいさつをしたり店の看板を読んだりできるようになるのも驚異的に早かった。しかし、村人たちの会話に参加することはなかった。いつも黙ってほほ笑んでおり、何か言うとしても、幼児が喋るような二語文でたいていの用をこなしていた。パパドの仕事ぶりに感心していた農夫たちも、初めてのミサでの堂々とした流暢な歌いぶりを耳にした人たちも一様に不思議がった。彼ならば、やろうとしてできないこととも思われなかった。何人かは面と向かって彼に尋ねてみた。しかしパパドはあいまいな微笑を浮かべるばかりで、複雑な内容を喋ることは決してなかった。村人たちは、そういう性格なのだろうと無理やり納得せざるを得なかった。司祭は毎日自分より早く起きてどこかへ行ってしまうパパドのことを不思議に思いはしたが、自分も日中はほとんど散歩に出ていることだし、夕方になると必ず帰ってきて、モランボン夫人が来られない日にも夕食作りを手伝ってくれて、同じ食卓を囲んでくれる彼のことを基本的に信頼していたし、なにより最初の一か月で意思疎通の難しさを痛感して、ややめんどくさくなってきていたのも事実だった。

パパドは様々な仕事をこなし、給料の額を気にせず、出されたものを素直に受け取った。明らかにケチろうとしていた人はやがて後ろめたさを覚え、適正な額を出そうと努めた。パパドがくる以前はろくに外に出られずに不衛生な空気にむせつつひっそりと生きていた少なからぬ人たちは、初めのうちは彼に感謝するあまり必要以上の額を渡してしまうこともあったが、彼があまりに無批判に受け取るのでかえって気の毒になったり、いつも来てくれるので安心したり、あまりに何度も来てくれるので自分のたくわえを改めて意識したりするようになって、無理をしなくなった。惜しんで一銭も出さない者も、不相応な大金を渡す者もやがていなくなった。

パパドはそのようにしてある程度の額を貯めると、早朝か日没間際の時間を狙って、奇妙な買い物に出かけるようになった。野菜に大きな傷があったり割れていたりするとそこから腐りやすく、市場はおろか身内にも売りにくいし、もし傷がなくともマンドラゴラを思わせる不吉でどこか猥褻な形だったりすると、信仰心がないわけではないのでこれも売れないしで困ってしまうところだが、パパドはこういう明らかな瑕疵のある野菜を好んで買い求め、その日のうちに使った。老人たちのスープが具沢山になった。製粉後にどうしても残るふすまの部分をたくさん含んだ不出来な小麦粉を粉屋から直接買った。チーズをこしらえたあとに残る上澄み液も喜んで買った。これらは捨てるか家畜の飼料にするかしか使い道がないので、粉屋も酪農家も初めは喜んで代金を受け取ったが、やがて恥じてほとんどタダ同然で提供するようになった。そして司祭様は鶏かヤギでも飼い始めたのだろうか、あの暮らしぶりなら無理もないが気の毒なことだ、などとひそかに言い合った。実際には司祭館のたいして広くない庭には鶏もヤギもおらず、肉は普通に肉屋で買っていたが、パパドは不思議なことに高価な脂身も人気のある皮の部分も固辞したので、その分またお金が浮いた。そうするとどこからか信じられないほど大量のトウガラシをはじめとしたスパイスを買い込んできた。やけに色鮮やかな粉末状のものや木の皮にしか見えないものもあり、モランボン夫人にとっては正直なところ不気味だったが、最近は体の調子が思わしくない日も多く毎日は司祭館へ通えないし、なにより主であるモイスト司祭が放任している以上は何も言えなかった。夫人が料理をしているときには手伝うけれど決して余計なことをしないパパドに対してもまだかなり好感を持っており、最後の一か月間でどうにかして彼にちゃんとしたパンやケーキや伝統的なイギリス料理を伝授したいと思っていた。町で教師をしている娘から、こっちのほうが村より少しは便利がいいから一緒に暮らさないかという誘いが何度もあり、来月まで待ってもらっていた。

夫人の思いをよそに、パパドは買い集めたスパイスを司祭館の自室で調合し、まずは司祭の食事に使い始めた。司祭館から不思議な香りが漂い始め、パパドの前掛けには色とりどりの染みがつき、洗ってもなかなか落ちなかった。とくにターメリックサフランの黄色はどうしても残った。そうすると、あんなによく太っていた司祭が最近なんだか痩せてきた、パパドが毒でも盛っているんじゃないか、などと言い始める者が出てきた。しかしそれにしてはモイスト司祭の痩せ方は健康的だったし、肌つやもよくなり男ぶりもよくなったようであった。司祭自身も、パリッとした鶏皮を口にする機会が減ったのが不満ではあったが、料理の味は良いし、このところ動きやすくなったとも感じていた。

毒のうわさが消えると今度は、パパドが怪しげな取引をしているのを見た、と誰からともなく言い始めた。町でときどき見かけるロマの一団と外国語で流暢に会話していたと。一見何の非の打ちどころもなく屈託なさげで、しかしどこかつかみどころがないようでもあるパパドに対する悪感情が、ここへきてやや燻りつつあった。教会の付近ではさすがに皆口を慎んだが、村じゅう走り回っているパパドがうわさを知らないはずはなかった。しかし彼は何の弁解もしなかった。季節は移り、秋になろうとしていた。

モランボン夫人がR村を去ることを決めたのとほぼ時を同じくして、マッケンドリック中佐が村に戻ってきた。彼は十代で志願して軍隊に入り、アジアや中東諸国に赴任し、最後に派遣されたエジプトだかシリアだかの風土がいたくお気に召して長いこと住んでいたが、このたび故郷を終の棲家とすべく帰って来たのだった。体格はさほど良くなくどちらかと言えば小柄だが、60を過ぎて杖なしでかくしゃくと歩き、眉毛はなお黒々とし、濃い灰色の瞳に鋭い眼光をたたえた迫力のある男で、彼をよく知らない村人たちもなんとなく一目置かざるを得なかった。なんでも陸軍の情報部で活躍したかなりの切れ者という話だった。モランボン夫人を送り、中佐を村に迎えるためのささやかなパーティーが、ろくに活用されてこなかった校舎で行われた。マッケンドリック中佐は、パパドが運んでくる赤いカレーや謎の煮物にいちいち舌鼓を打ち、しきりに褒めたたえた。

「おお、ジャガイモのチョッチョリじゃないかこれは。懐かしいな。これが作れるなら、君、サモサもできるんじゃないかね。もう少し辛くして、ちょっと皮で包んで揚げてな。わしはあれが大好きなんだよ」

中佐があまり美味そうに食べるので他の参加者も徐々に、パパドの持ってきた見慣れない料理に手を付け始めた。悪くなかった。みんなが料理に夢中になっている隙に、中佐はパパドの肩を引き寄せてヒンディー語で囁いた。「ところで君、その名前はほんとかね?」パパドはあいまいな微笑を浮かべ、やや首を傾げた。そして中佐の腕からするりと逃げて、司祭のほうへと歩いて行った。

かくして、R村のあちこちからスパイスの香りがするようになった。

(つづく)

トマス・パパド伝 1

R村の人口は500人に満たないほどで、ほとんどが農業を営んでいた。毎朝早くに男たちはそれぞれの仕事道具を持って畑や森へ入っていき、日がとっぷり暮れてから戻ってきた。女たちが買い物をする店はだいたい決まっていて、みんな午前中にすませてしまってあとは家事にかかるので、昼過ぎにはほとんど人通りがなかった。じつに活気のないところだった。村の中心にはなかなか立派で趣味の良い教会が建っていて、傍には16歳くらいまでの子たちが通って読み書きそろばんを習う学校と、かなり昔からあるそれなりの広さを誇るレンガ造りの図書館があったが、どこもさびれていた。親を手伝う代わりに学校に行かせてもらえる子供はせいぜい十数人しかいなかったし、図書館の本の大部分は誰の手にも取られることなくただほこりをかぶり虫が食うままになっていた。教会での仕事のほかに図書館の司書を兼ねるシスター・ジェニングスはカウンターの下にベストセラー本とマンガと戦記物とワーズワースの詩集をいつでも取り出せるように固めて置いていて、いつもそれだけで事足りたのだった。

R村において力仕事に縁のない唯一の男であるハロルド・モイスト司祭はまだ30をちょっと過ぎたくらいで若々しく、頑健で、エネルギーにみちており、そのよく太った体と旺盛な好奇心は、教会に併設された上品なクリーム色のこじんまりした司祭館はもちろん、広いだけでほとんど死にかけたかび臭い図書館にもとうてい収まりきるものではなかった。司祭はしばしば歩いてずいぶん遠くまで散歩に出た。かつては子供たちを連れて町まで遠足に出て映画など見せて帰るのが好きだったが、そうすると親としてはいくら司祭が心配するなと言ったところで心配になるし、子供たちは小遣いを欲しがるし、弁当も持たせなければならないし、なかなかいい顔をされなかった。一人になると司祭の散歩の時間はさらに長くなり距離も日に日に増え、今では彼がどこまで行って帰ってくるのかちゃんと知っている村人は一人もいなかった。司祭はどんなに遠くに行ったとしてもその日のうちに戻ってきて行方不明になることはなく、そもそも教会で働く3人のシスターと司祭館の家政婦モランボン夫人のほかには彼のことを気にするものはとくにいなかった。村人たちはみなモイスト司祭をそれなりに良い若者と思ってはいたがそこまで強く尊敬はしていなかったし、そう熱心な信徒でもなかった。誰もが日々の仕事を一番に考え、よそ者が現れて自分たちの食い扶持が奪われるのを最も恐れていた。

だからある夏の日、司祭が散歩に出て戻らず、次の日の夕方になって、泥だらけの半裸の男を背中に背負ってふうふう言いながら帰って来たときにはみんなが驚いた。どこでその裸ん坊を拾ってきたのか司祭はよく覚えていなかった。いつになく遠くまで行ってしまい、暑さでくらくらしてきて、ちょっとどこかで休んでから戻ろうかと思っているときに、畑のわきのぬかるみに落ちているのを見つけたのだという。恐る恐る近づいてみるとしっかり息はしていて、ただ服を着ておらず、足にひどいけがをしていた。周りに建物もなく人もおらず、このまま置いていくに忍びなかったので、自分の上着を着せてやり水筒の水を飲ませ、背負って連れ帰ってきたのだった。男は朦朧としているのか、司祭館の周りに集まってきた人々の顔をぼんやりと見るだけで一言もしゃべらなかった。モランボン夫人と、むかし町の病院で働いていたミズ・ユンケルは、困惑しながらも司祭と協力して、かいがいしく男の世話をやいた。

男の肌は褐色で、よくやせていたが健康だった。足のけがは見た目ほどひどくなく、ミズ・ユンケルの処置も良かったので、男は三週間ほどすると回復した。しかし、やはり一言も話さなかった。謎の男は彫りの深い独特の顔立ちをしており、黒いよく動く瞳をもち、笑うと歯並びの悪さが目立ったが、どこか人をひきつけるところがあった。どこから来たのかも、名前も歳もわからなかったが、意識がはっきりしてきたころ、オートミールを持ってきたモランボン夫人の手をとってほほ笑んだその様子から、モイスト司祭は男の善良さと夫人への心からの感謝の意を読み取った。男は夫人の仕事ぶりを興味深げに眺め、自由に歩けるようになると進んで手伝うようになった。なかなか要領が良かったし、モランボン夫人の腰の具合が最近よくなかったこともあって、司祭はこの男にもうしばらく居てもらいたいと思うようになった。教会で働く人々はおおむね男に好感を持っているように見えたが、他の多くの村人たちの目が心配だった。そこで司祭は男に次のミサに出席してもらうことにした。

それにあたりモイスト司祭は男を聖堂に案内し、身振り手振りを交えながらできるかぎりつぶさにミサの流れを説明した。男は長いまつげをしばたたかせながら聖堂のあちこちを司祭にぴったりついて歩き、司祭が何か話すたびに深く頷いてじっくりと聞き入っているように見えた。司祭が聖餅を手にして舌にのせる真似をしていたとき、今までまったく話さなかった男が小さな声でポツリと一言、「Papad?」とつぶやいた。

「パパド?君はパパドっていうのか?」司祭が聖餅を持ったまま尋ねると男は力強く頷いた。「パパドはラストネームなのかな?」男はまた頷いて、「Papad!」と嬉しそうにはっきりと言った。若々しい、跳ねるような響きだった。モイスト司祭の心に、たぶん自分と同い年くらいのこの男へのさらなる親近感とともに、深い喜びと、なにか確信めいたものが沸き上がった。「君の意思がはっきり確認できないから、今すぐ君に洗礼を授けることはできない、しかし、今日は7月3日で聖トマス使徒の日だから……そう、トマス、君をこの名前で呼ぶことにするよ。トマス・パパド。かまわないかな?」男は微笑んで頷いた。

(つづく)

おさかな天国 2日目

翌朝目覚めるとすり美の姿はなかった。玄関には私の靴だけがあった。彼女は出かけているらしかった。そういえば昨日展望台で出会った時、すり美はカバンとかポーチとかいったものを一切持っていなかった気がする。ワンピースにもとくにポケットなどついていないようだった。カフェの勘定は確か私がした。彼女が部屋の鍵をどこから出したのかよく覚えていない。何ひとつまともに思い出せない。昨日見たワンピースも部屋着も寝室にはなかった。彼女はいったい何を着て、何を持って、どこに行ったんだろう?コンクリート打ちっぱなしのマンションの殺風景な部屋に私は独りいて混乱していた。玄関の大きな姿見に、上半身裸で血の気の失せた顔をした、中肉中背のとくに容色にすぐれてもいない、凡庸な28歳の男が映っていた。私は思わずくすりと笑った。昨夜体を洗わないまま寝たのを思い出した。

洗濯機の中には昨日すり美が着ていた大きな丈の長いシャツと、洗いざらした綿の下着がつくねてあって、そんなことでほっとしている自分が情けなかった。まるで子供じゃないか。熱いシャワーを浴びながら、子供のころ休みの日の朝に起きてみると母親が勤めに出ていた時のことを思い出した。そんなこととくに珍しくもなかったのにその時はひどく動揺して泣きべそをかきながら家じゅう探し回り、居間のちゃぶ台に書置きを見つけてようやく落ち着きを取り戻したのだった。確かもう小学校の4年生くらいにはなっていただろうか。図体のでかい臆病な子供だった。そのくせ誰にも頼りたくないと思っていた。そこからろくに成長していないということなのかもしれない。

風呂から出て丈の合わないバスローブを羽織りベランダに出ると空は薄曇りで、風は冷たく、ほんのり湿り気を帯びていた。靴は玄関にあるし財布を入れた上着も昨日脱いで椅子にかけたままで、外に食べに行こうと思えばできたが、そういう気にならなかった。かといって冷蔵庫を漁りたくはなかった。キッチンの隣の小さなパントリーからオイルサーディンの缶詰とクラッカーを取った。オイルサーディンの油を少し捨てて、缶のまま火にかけてクラッカーを突っ込んで食べた。とくに侘しくはなく、むしろ気楽でよかった。冷蔵庫から缶ビールを一本だけ出して飲みながら居間のソファに座り、テレビのスイッチを入れた。起きたのがよほど遅かったらしい。もう真昼だった。『徹子の部屋 NEO』が終わって昼の洋画劇場が始まるところだった。

『007/怪魚ヒルデブラント』は奇妙な映画だった。解説によるとジョン・カーペンター監督が1989年に撮った、上映時間わずか65分の映画で、007シリーズとしては破格の短さながら内容的には素晴らしく、同監督の代表作のひとつと言ってよいだろうという話だった。確かに印象深くはあった。サム・ニール演じるジェームズ・ボンドがインド洋セーシェル諸島のいかにも温そうな海で巨大なアカエイと戦って勝利をおさめ、現地の漁師たちの喝采を浴びる。そのあと地元の名士フィデル(よく日に焼けた小柄で小太りの白人で、いつか見たハチャメチャなコメディ映画で見かけた気のする俳優だった)を介して、ドイツ系アメリカ人の富豪クレストの所有するインド洋一豪華な船でのパーティーに参加するのだが、このクレストというのがなんとも下品かつ横柄なやつで、金にあかせて世界各地の希少な魚を無節操に買い集め、パーティーでは酔って客をののしり、アカエイの尾で作ったごつい鞭をちらつかせて若く美しい妻(ケリー・マクギリス)を脅している。軍隊シャツにブルージーンズに大きなバックルの付いたベルトをしめて出てきて、よく見るとニック・ノルティだった。無精ひげを生やし、少し老けメイクもしているらしい。彼はボンドとフィデルに会うなりイギリスの経済力のなさとクレオール文化をおちょくって二人を存分にいらだたせた後、自分の妻とボンドとのつかの間の密会を目ざとく見つけてボンドを殺すと息まき、自室に戻って妻を虐待し、翌朝未明に甲板の上で死んでいるのを、物音に気付いて起きてきたボンドによって発見される。口の中にでっかいピンク色の鋭いとげやひれのいっぱいついたオコゼみたいな魚(通称ヒルデブラント)を突っ込まれて窒息したらしい。その顔がアップになる。とたんにサム・ニールの額に脂汗が吹き出し、鬼気迫る形相で、妙に手際よく死体の処理をはじめる。甲板に吊ってあるハンモックを切れ味の悪いナイフでわざと粗く切って垂らし、死体を苦労して海に投げ捨て、転落事故に偽装する。そして犯人を推理するのだが、フィデルの犯行は早々に否定され、事件の発覚から5分もしないうちに犯人がほぼ確定する。ケリー・マクギリスが、分厚い手袋をはめてどぎついピンク色のとげだらけのでかいオコゼをニック・ノルティの口に押し込み、ニック・ノルティがのたうち回りながらくぐもった奇声をあげ、魚を引き抜こうとして顔と手を血まみれにする、やけに長い凝ったイメージ映像が挿入される。死体は海に消え、魚が凶器だったことは犯人とボンドしか知り得ないため、ボンドは富豪の妻に「あの珍しいヒルデブラントの標本はどうなさるご予定ですか」とカマをかけるが、彼女は顔色一つ変えずに「大英博物館へ寄付しますわ」と答え、そのうえ「夫の突然の事故死で心細く、事後処理にも自信がないので、もう数日ここにとどまって手伝ってほしい」とまで言ってのける。サム・ニールの顔がこわばってますます狂気を帯び、両者の間に緊張した空気が流れるが、彼は引きつった笑顔で、富豪の妻の申し出を受ける。二人はピンクのシャンパンで乾杯する。爽やかな朝日に照らされて遠ざかる豪華絢爛な船を映しながら、場違いにロマンチックなエンディングテーマが流れはじめる。

途中からクローネンバーグの映画を見ているのかと思った。『遊星からの物体X』もグロテスクではあったが乾いた質感があって、今回はうって変わってかなりネッチョリしていた。顔中血みどろで口の周りの皮膚を太いとげに突き破られたニック・ノルティの死にざまが脳裏に焼きついていた。ビールはまだ半分以上残っていたがもはや飲む気がせず、中身を流しに捨てに行くとつい一時間前に食べさしたオイルサーディンに大量の小さなハエが群がっていた。慌てて缶を洗って蓋つきのゴミ箱に捨てたが、そのゴミ箱の内側にもびっしりと小虫が貼りついてうようよ蠢いていた。私はよろめきながら寝室へ向かった。寒々しい色の壁や冷たいフローリングの床が、一足踏み出すごとにゆっくりと歪んでいくように思われた。蟻を何匹か踏んだ気がした。

寝室にはすり美がいた。体の線がくっきりとわかるだいだい色のワンピースに身を包み、ベッドの上で悩ましげに体をくねらせている。その額にでかめのハエがとまった。彼女はそれを払いもせずに囁いた。「ねえ、続きしよっか」

「しねえよ!おかしいんだよこの部屋!さっきからハエとか蟻とか虫が多すぎるんだよ!冬だぞ!なんか色々腐ってるんじゃないのか」

「あ、それはさっきなれ寿司を買ってきたから……テーブルに置いてある」

「いやその前からなんかやたら目立つんだよ、うじゃうじゃいるんだよ虫が」

「もう!落ち着きなさいよ。他の子は一週間くらいはもったよ」

「他の子ってなんだよ!」私は我を失って彼女の首根っこをつかんで引き寄せた。黒いチョーカーがちぎれ、首があらわになった。そこには赤いビニールテープが巻かれていた。私はそこに印刷された文字を読んだ。『ワンタッチで、あけられます』

不意に懐かしい記憶がよみがえり、涙があふれ始めた。すり美は銀色の金属製の髪留めを外し、それから私の手をとって、ビニールテープの端まで導いた。「さあ、いいわよ」

私は震える手で赤いビニールテープを引っ張った。テープはするりと取れ、すり美の体にぴったり貼りついているように見えた薄いだいだい色の服がはらりと剥がれ落ちた。

ああ、なぜ人は大人になると、おさかなのソーセージをあまり食べなくなるんだろう。こんなにおいしいのに。

私はすり美の桃色の肌に狂おしくむしゃぶりつきながら、心からそう思った。彼女も私の首筋に嚙みついて吸っているのがわかった。甘美な痛みだった。

今も私は彼女とともにこの部屋にいる。空腹に悩まされることも、疲労することももはやない。私たちはいつも一緒にいる。たぶんこれからもずっと、いつまでも。